第一Chapter やわらとは

         ・剛強・柔弱
“剛”は“強”ではなかったのだ。
“剛”はあくまで一つの事に優れたもの、しかしその本質は自然の理と
は調和せず、調子は浮いて、軽く細かいものなのだ。ちょっと意外に
に思うだろうか、けれどもこれを老子が見抜いていた本質だ。
 “強”は宿命的にだんだん弱くなり、用をなさない、やがて消滅する
(鉄砲玉のようなものだ、最後は地に落ちる)だから純強の勢は必ず
滅びる。
 “柔”は“弱”ではない、柔らかさとしなやかさを持つ、自然の理とよ
く調和し、調子は沈み、穏やかである。
 “弱”はもともと役には立たないようだが、重くてものにはよく従い
誰からでも助けられる。
私が求めた“やわら”の奥義は赤児のように柔弱なものだ。
この奥義を、老子は自然の理そのもので柔弱は剛強に勝つものとして
述べている。
“剛強”を求めるはずが“柔弱”を求めねばならない羽目になる。
皮肉だろうか? いや、そんなことはない!
 縮めたいなら、まず伸ばしてやる。
 弱めたいなら、まず強めてやる。
 廃したいなら、まず挙げてやる。
 奪いたいなら、まず与えてやる。
これも老子が口説いた、弱は強に勝つ道理である。
 曲がるから真っすぐになる。
 屈することによって、伸びることができる。
すなわち、ぶつかっても“組合い”をせず“腕力の違い”も問題とせず、
心、静かに、柔らかく弱く、譲り退くこと、ようするに、上善は水の
ごと し、不争の精神のことを言う。…それで、友を守り、家族を守れ
るのかな?…いや、そんなことはないよ!
少しづつ努力していると、感性で積み重ねられた経験からくる“象り”
を至高の名器ストラディバリウスが優しく奏でるがごとく、体を包む
ように制御する。だから“象る”舞は、誰でも奪うことも、止める事も
できない。だから“象り”は心の宝だ。
もし相手の(力)の作用が見えたときは、状況を観察しながら変化す
る。その時の変化というのは脱力する事をいう後で述べるが“やわら”
六法を主とする。その中の一つのエネルギーを“千尋”と言う。
そのエネルギーは、(力)ではコントロールは出来ないが、平常心で
象れば関節を通してその(力)を地に返す、また、相手に反作用を起
させて中心のコントロールを奪う。
だから “やわら”は(力)を道具としない、又(力)の道具にはならな
いそのようであるから宇宙の根元的エネルギー “玄” を主としている。

     ・術と形と“象り”

術とは、技を練習して、修めたもので、技は(力)の応用を形で現し
たものである。しかし“やわら”は“争い”や“いかり”の中では存在する
ことがない。勿論、勝負することがない、ただ、優劣を競うことだけ
だ、そう“やわら”は宇宙の真理と同じで、音も色も形も実体もない、
だから太極の中から生まれた“玄”を主としている。
 では“やわら”は、柔術、柔道とはどの様に違うか?
普通、柔道、柔術の場合は、腕力で投げたり抑え込んだり、時には、
当身などするが、“やわら”は形もない、技も、当身、足払いもない、
生地を掴む事もない、剛強な(力)もスピードもいらない、更に手を
取られても、手解きをしない、そのまま利用するだけだ。それに、実
際に(力)感じることができる、(それは豊かにした感性)そうして
柔道、柔術の場合は形があっても、象りと言う記号は存在しない、も
ちろん、柔道の投げる姿は(力)で形を作って(力)で投げる。
また、柔術の場合は関節を(逆手)で攻めて投げる。だけど“やわら”
は、相手の(力)が強いからと言って方向を変えようとはしない。
いつでも、どうぞ(力)を入れてください、貴方に従いますから、そ
のようにして下さい。であるから脊椎の命門と陽関の間の関節のとこ
ろに、存在するのが “核” であり、その“核”の中に住む(重力と呼吸を
吸 を合わした)エネルギーを“玄”と記号して、それ等の呼吸のエネル
ギーで景色を“象る”稽古を積重ねて修めたものが“やわら”である。
ゆえに術も技も存在しない。

      ・“象り”の理法

“武芸”とは、舞踊家が物語を“象る”るように、相手の行動を景色と見
なして気の応用を“象り”で現したものであるが、その“象り”に理を入
れたものを法と言う。すなわち理法であるが、理法とは“やわら”の原
則を含む(第六Chapterやわら六法)“象る”操作方法である。だから
理法を行うときは、必ず守らなければならない“象る”特有の法則があ
る。
・その理法は、実を捌き、その実を“象る”決して、その虚…する処を
 “象る”事はしない。それは、虚は実に変わるからだ。
・次に、作用を行うときは相手との間に一定の角度が必要になる、そ
 の角度とは相手の体を起点として作用を行うものであるが、この時
 点で自分と相手との間で作用を行う位置が必要になる、その位置の
 構成は“二之歩”(捌きである)もしこれが不適度であればその作用
 はなされない。
 だから、“二之歩”は“象り”に関しては不可欠である。
・更に“象り”は慣性である、だから(力)で“象る”事はない。
 その結果は “やわら”六法に基づく作用で、(力)を入れた相手自身
 が反作用で倒れることは必至で、だから投げようとする心は持たな
 い。

     ・直接的に関節を攻めない

“やわら”は、舞のように景色を象るから、優劣があっても勝ち負けは
ない、どちらかが優れ、どちらかが劣るだけのことだ。また“やわら”
は直接的に関節を攻めない。だから“象る”と言う、心持のいい舞があ
る。ここで少し“やわら”を理解するために、柔術と“やわら”の在り方
と操作の違いを説明する。
柔術、柔道は実を捌き、虚に至らし、その虚を操作する。
“やわら”は相手の実を捌きのその実している処を“象る”だから、そ
 の作用(象る作用はのちに述べる千早)を行うときには、必ず相手
 が(力)で行動を起こした時、相手の体を起点として“象り”を行う
 ものでこの時点においては自分と相手との間に“象り”を行う位置が
 必要となる、それを捌く(二之歩)あるが、その位置はいつも相手
 が構成してくれる。もしこれが不適度であれば、その“象り”はなさ
 れない、だから捌きは“象り”に関しては必要不可欠である。 
柔術は急所を当て、または重心を揺さぶりバランスを崩し、さらに
 関節に対して操作を行うが、その目的は関節を逆にして(自然に反
 する、無理な体勢に(力)を加える)これを利用することにある。
“やわら”は急所を当てることはない、また蹴りもない。
柔術に於いては、自然に反する無理な体勢に(力)を加えて、関節
 を制御する方法である。
・関節を伸ばす方法。
 それは伸縮することが出来る関節に対して極度に伸ばしさらに(力
 )を加える。
・関節を縮める方法。
 それは伸縮することが出来る関節に対して極度に折り曲げさらに(
 力)を加える。
・関節を捻る方法。
 それは伸縮することが出来る関節を極度に捻り(力)を加える。
“やわら”の場合は、相手が、関節の伸ばし、折り曲げる、捻るなど
 極度に(力)で制御しょうとした時は、必ず小胸筋を緩め解脱をす
 ることを要とする。
・関節を本逆にする方法。
 それは、手首関節を自然に捻る方向の反対方向へ捻りながら(力)
 を加える。その作用によって肘関節も逆となり、手首肘の両関節を
 同時に痛める。これを、“本逆”と言う。柔術においてはその様であ
 るが。
“やわら”は、関節に圧力を加えることはないが、普通に“象り”を行
 っていても、相手が抵抗した時は、“象り”によっては自然と関節が
 逆になることがある。“ただし本逆は存在する”そのようにして何事
 も自然の手筋に入った時は、(力)および作用を主体としてはいな
 い。なぜならば、作用を(力)によって操作すれば勢法の形が現れ
 て、自然の作用ではなくなるからだ。だから相手はその形のあると
 ころを変化して来るから、相手の表裏に落ちる。(表裏に落ちる)
 とはシャツを着るとき、裏か表か確かめないで着るようなもの。

      ・“象り”を行う機会

だいたい、武道に限らず相手の行動には、何か行動すれば相手は必
ず、これに反抗することがあたりまえである。
この反抗するときは、頑張り、反撃、変化などがある。とにかく相
手が 不動体制の時は動作の裏をかかれる事が多いから、注意が必要
だ。従ってその時の自分は相手に行う方策は、まず相手の体に触れ
たときは、自分の体の一部だと思うことに因って“象る”作用は心の
思うままになる。
そして、相手の体を“千早”(後で述べる)で重心を崩しながら中心
点を奪いさらに変化を封じて不安定な体にする、その不確実な姿に
なったまま“象り”は進行する、もちろん当然の理であるが、さらに
行動を一歩先んずるチャンスがある。
そのチャンスとは、相手が崩れる前に行動する、その行動は実をし
ているその実している処がチャンスで、そこを“象る”ことが肝要
ある。なぜかと言うと、相手の行動が実…していた後は必ず虚に変
わるちょうど体のバランスが崩れるときである。
 又、相手の行動が虚…していた後は必ず実に変わる、だから虚…
した体制を“象る”ことはしない。その様なことで“象り”で相手を制
御するがこのチャンスを逃がしたときは表裏に落ちることがある。
 又、その変化に伴はないときは、中途で行きづまって、くじけて
しまう事がある。この表裏に対する手立ては変化である。
“やわら”に於いて変化の伴はない“やわら”は何らかの価値がないと
思へる。だから、“やわら”は無限の変化とも言う、相手の変化に対
して虚実を知り、さらにチャンスを失わず、変化に因って“象る”こ
の変化こそ、後で述べるが「孫子の兵法、寄正の変り」である。

     ・(力)の徹底的な排除

柔術は江戸期からすでに「柔」という文字を用いているつまり“柔
ら”だ。「新たなる始めに」に記したように、私にとって“やわら”
の追究の初めは『老子』だったが、柔術や柔道でよく“やわら”の起
源として引き合いに出される「柔能剛制(柔よく剛を制す)」は中
国の兵法書『三略』にその記述がある。考えてみれば不思議である
剣を用いれば剣術、棒を用いるなら棒術と称するのが常であるのに
対してなぜ無手術、徒手術、などのように呼称しなかったのであろ
うか?それは、数ある柔術流派に共通する、重要な術理があるから
だ。それは「相手の力に逆らわず、力技でないもので相手を制する
」と言うものだ。
別な言い方をすれば、徒手の取っ組み合いとなれば(力)の強い方
が勝つと言うのが古においても一般的には当たり前の認識だったと
言うことも意味している。“力技でない”以上は、程度問題であってはならない。
つまり「自分の1・5倍の(力)の相手には勝てるが、2倍以上の
(力)の相手には勝てない」と言うのでは、先の理に反している。
私は柔術、柔道、合気道、合気柔術……数多くの技を見た。しかし
それはどれも、「たとえ自分の10倍の(力)を持つ相手でもかけ
られる」ような技ではなかった。競技化して“積極的に攻めねば減
点される”ルールすらある柔道などでは、手っ取り早くパワーとス
ピードに頼るようになるのも仕方のない事なのかもしれない。けれ
ども、競技化の洗礼を受けていない古流柔術、合気術、合気な道ど
を見ても、“結局は(力)があった方が掛る“技”のように思えてし
まったのだ。しかし「答えは(力)ではない」……それは何も組技
に限ったはなしではない。
私は拳法に励んでいたころから、その感覚は芽生始えめていた。
すべて、動かすものは(力)と記号とするから、(力)でないもの
が存在しなくなる、逆に言えば、動かすものは“玄”だと記号したと
すれば、“玄”でない(力)が存在しなくなる、即ち、ものを動かす
ものを(力)だと、こだわっていてはだめ。だから、(力)が足り
ないから他の代替え物を探さなければならないのではない。
それは、初めから
(力)と言う言葉を忘すれると(力)になることはない、また、相
手の(力)が見えたときも、“象り”を為すときも“核”に気を沈め、
脊椎(背骨)を緩め、(玄)に気を置いて(玄から出るエネルギー
は柔らかい、丹田で出るエネルギーは力)手ではなく肘で景色を
“象れ”ば、どのような状態でも相手を制すことができるようになる
・一寸アドバイス、湯船の中で、小胸筋のパワーを抜き両手を前に
 伸ばし掌を下に向け両手肘を浮かす稽古をする。
 まず、両手肘を湯船の中で前に伸ばし、水面に浮かす稽古をする
 両手が水面に浮くようになったら、両手が水面に浮きあがる寸前
 に両手の掌を肘で捻って上に向けて浮かす。これは、少し難しい
 が、何度も繰り返し、浮くまで稽古をする。(のぼせないように
 注意)次に、両手を浮かし両掌が水面に出た瞬間、両掌を肘の捻
 りで下に向け、湯水を肘で下方へ圧する。この時は手掌のパワー
 で湯水を圧しないで肘の重さで圧すること肘で優しく湯水を圧す
 る感覚をバッチリと小脳にイン・プットしておくこと。
その、感覚で景色を“象る”と繚乱する蝶々の遊戯に似て華麗である
私は、皆さんに厳密に“象り”から(力)を排除してほしい、だから
本当に極限まで(力)を排除しなければ“やわら”ではないのではな
いかと?そう思った。
 次に(力)を排除する“象り”の遊びをしてみてく゚ださい。

                       次につづく