第二Chapter ”玄”の存在

      ”玄”の存在                  

1・暗黒物質“玄”
2・物理の法則
3・気とは?宇宙
4・(力)でないものが“象り”になった
5・検証 童 駆
6・“玄”と言うエネルギー
7・“玄”と“やわら”の概念方程式

   ・暗黒物質“玄”

道なき道を踏みしめて歩み早や数拾年の歳月が過ぎた。
しかし挑戦する限り、道は続く。“今も”前例も正解もないが(力)に
勝るとも劣らない、エネルギーを発見した。
 それは……“玄”だ!
“見えないが確かに存在するもの”と言うとどんなものを思い浮かべる
だろうか?
 重力、力、電力のようなものを想像する方も多いかもしれないが科
学の世界において正式に認められているものが多い「ダーク‐マター
は銀河間に大量に存在しながら光を発していない物質だが、その質量
は30%、後の70%、は「ダーク‐エネルギー」目には見えない、
すなわち光学的に観測はできない。だから暗黒物質などとも呼ばれる
がその周辺の観測によって物理計算から「そこにこれだけの質量(引
力)の物質が必ず存在する」と言うことを割り出すことができる。つ
まり“見えなくとも確かにそこにある”ものなのだ。しかし、宇宙の膨
張を押さえているが悪さはしてない、それは、周辺の天体の運動に影
響を及ぼしたり、光の軌道を歪めたり(重力レンズ効果)と言った観
測できる現象を確かに起こしている。
私は次の「ダーク‐マター」から、老子も似たような概念を口説いて
いることを想い起した。
 それは、玄の又“玄”象妙之門なり、私は、その“玄”なるエネルギー
は柔らかい“円”のようなものだと思える、なぜか?
すなわち、人間は小宇宙と呼ばれている、その小宇宙が大銀河系と同
じく螺旋を描いているから不思議に思っただけだ。
 日本人にはこの文字は「玄米」ぐらいしか馴染みがないかもしれな
いが“黒”という意味がある。
 老子曰く、“玄”は「少し赤みを帯びた黒」とされている。しかし、
“玄”とは「無」と「有」この両者は、じつは、分かれでたものの本体
である根元的な存在だ。だから「無」とは幻「有」とは大自然、その
大自然が無形から生まれた“玄”見えようが見えまいが、確かにそこに
あり確かに目に見えた現象を起こす。
いちばん簡単に分かりやすいのは、この大宇宙を考えて見ることだ。
その中の太陽系の在り方を観察しても、きっと“玄”が作用していると
思はれる。現実的に私は“象り”で表現し“象り”で結果を出している。
“やわら”の本質はこれなのではないか、と思った。  

   ・物理の法則

 考えてみれば、“見えないが確かに存在する”ものなど、私たちの周
辺にたくさんある。“光”も、ある意味で透明だ。しかし物に当たる時
その反射の具合で“色”を認識する。
見えず、感じることもできないもの、と言うのもたくさんある。電磁
波などがそうだ。(力)も、実は目には見えない。けれど感じること
ができる。
“玄”は、見えないし、感じることもできない。それは(力)でないか
らだ。しかし小宇宙である人間の“核”命門と陽関の間に住む“玄”と言
う宇宙のエネルギーである。(脊椎を参照)
私は、自分が“やわら”に求めているエネルギーであると直感した。
その“玄”は脊椎の関節を通り、肘関節で“象り”の作用を起こす、また、
投げるときは、肘関節で圧を掛けるだけである。
この、圧を掛けるときは、足で地を踏むが、踏むときは両方の足は面
を保ち圧を掛けないないで柔らかく踏むことが不可欠である。
物理には「仕事」と「エネルギー」という言葉がある。仕事は力×距
離で算出され、要するにどれだけの物体をどれだけ動かしたか、とい
うことを意味している。すなわち“現象”であり目に見えるものだ。”やわら”で“象り”を求めるのはここであると言えるだろう。
一方、エネルギーは、仕事をし得る能力のことを言う。例えば100
メートルの高さに10キログラムの鉄球が紐でぶら下がっているとす
る。その紐を切ったとたん、その10キログラムの鉄球は落下し、地
面に当たる時にはものすごい速度になって、ものすごい衝撃力を地面
に与えることになる。
これを物理では、ぶら下がっている鉄球はそれだけの位置エネルギー
を持つていたと表現する。相手を無理やりに、投げなければならない
のならば、それは(力)しかない。(力)で投げるしかないのだ。
しかしここで一つのひらめきがあった。すべての武道には形がある。
(形は力だ)だから自ら形を為すのではなく“象る”のではないか“象
り”は慣性だ。
思えば武道では、自からが、いかに良い形を作り、いかに大きな威力
を生み出せるか、そこへの努力がほとんどの武道家の心に繋がってい
るような気がする。でも本当に必要なのは、相手に応じて変化するこ
となどではないだろうか。
良い形を作り、相手とぶつかってもその良い形を貫こうとするならば
そこには確かに(力)が必要だろう。しかしそんな必要はないように
思えてきたのだ。逆に言えば、形を尊ぶあまりに、(力)に頼るよう
になってきてしまっているのではないだろか。
 “武芸”は形の良さを競い合うものではまったくないものだ。だが
(力)で形を作ることはできるが、(力)で象ることはできない。
逆に言えば(力)でないエネルギーすなわち(力)を抜いたエネルギ
ーでは“象る”ことができる。そこで(力)でないエネルギーが隠され
ていることがわかっ た。(力)でないエネルギーがあると言うことになる。
けれど、形は(力)だから結果を出すことが出来るが、相手がいるか
ら、形に結果が出たとしても、偶然かタイミングが良っただけのこと
(勝負は時の運という)。
しかし“象り”は(力)ではなく、慣性であることから“玄”(千尋)と
言うエネルギーの作用で自然と良い結果を出すことができる。
そして“やわら”の本質はおそらく“玄”にある。“玄”は(千尋)形も色
も、音も、実体もないエネルギーであるから、対象物に対しては直接
的には何の仕事もしていないようだが、しかし、その結果が現象とな
って現れ、その現象は太極の中から生まれた、太極投げと言う舞いで
表現された景色だ。
その景色を“象る”作用させる要素が“玄”(千尋)である。

     ・気とは?宇宙

ここまで読んでいただき、なんとなく“気”と言うものを思い浮かべて
いる方もいるのではないかと思う。
“気”と言うのも、大昔から用いられている概念だ。ただし、現時点に
おいて、各人各様の解釈が存在してしまっている。あくまで一つの見
解として、私の“気”のとらえ方をここで触れておきたい。
“気”で人を投げられる、と考えている人もいるようだが、それは絶対
にあり得ないと思う。もし“気”で人を制覇できるとしたら、その人は
世界を征服しているだろう。
その“気”とは宇宙の存在と同時に宇宙の真理、精神、意思、作用、そ
うしてエレルギーと言った、目には見えないが存在するものを表現し
た言葉なのだろうと思う。
(すなわち記号だ)宇宙の真理、精神、意思、作用、エネルギーなど
目には見えない無形なものを本体(陽)と言う。その無形を老子は道
(タオ)と称し、道が創世の作用を起こすと万物もそれにつれて生ま
れてきた。それを「有」と言う。「有」とは「無」の作用からうまれ
た“陰”のことだ。
「無」は常に物を生み出そうとしている。「有」とは常にものを滅亡
に向かわせようとしている。これは「秩序は必ず崩壊に向かう」と言
う原則として物理でも言われていることだ。
“気”と言う概念も長年用いられている割には明確に定義されていない
が、“暗黒物資”も“玄”も、まだまだその内実は正体不明である。
それでも私が求める“やわら”をつかむ手掛りは“玄”である。
 そう確信している

   ・(力)でないものが象りになった

我が象水流に「童 駆」と言う“象り”がある。大人が右手で子供の
右手を取る、そのときは、大人は子供は小さいから、少しお辞儀をす
る感じで、子供の手を掴む。この時、子供は、大人の右斜め後方に逃
げ出せば尻餅をさせる事ができる。
逃げる時、相手に取られた右手はむやみに動かさないで、そのまま、
相手の斜め後方に駆け足で逃げると、相手は後向きに尻餅をつく、ゆ
えに手を離してしまう。
この時に、子供は腕に(力)を入れようとして逃げたわけではないた
だ恐れて逃げただけで(力)は入れていない、だけど、大人は(力)
を入れて掴む、この時の大人と子供の状態は大人は(力)を入れ(強)子供は(力)を入れない(弱)ここで(力)は強いか弱いかだけの相対が生じていた。だから(力)でない記号は存在しなかった、しかし、私は(力)の相対する記号は“玄”と 言うエネルギーだと思う。

   ・検証 童 駆(Warabegake)YouTube
 手を取られた女の人は、右足から一、二、三、四、と斜めに歩むだ
けで。相手が倒れる。
あとは、右手を振り上げ、立てに振り下すと取られた手は離れる。

                                                 “力でない”ものによって確かに、逃げるだけで“象り”は為し得る。
体格や筋力などと言った要素の相対関係によって、手が取れる取れな
いと言った方法論ではないはずだ。
つまり相手の体が大きかろうと、(力)が強かろうと関係なしに、
“象り”ができると言うことだ。

   ・“玄”(げん)と言うエネルギー

(力)=強いが軽い。陽だから反作用が起きる。
“玄”=弱いが重い。陰だから作用点になる。
性質面から両者をとらえると、こういうことになる。この強、弱の二
者が半々で宇宙のバランスをとっている。
“玄”があるから(力)も存在するのだ。“玄”が存在しなければ宇宙も
存在し得ない。そして、エネルギーには運動エネルギー、位置エネル
ギー熱エネルギー、光エネルギー、電気エネルギーといったようにさ
まざまなものが存在する。同様に“玄”を為すものにもさまざまな現象
を起こすものがあると思うが、“玄”は呼吸と千尋がエネルギーになっ
ている。
“玄”はとても柔らかく、少しでも力むと隠れてしまう。だから“バラ
ンス”なのだ。
“対立関係”ではなく、(力)を吸収したり、時には封鎖することもあ
る、この性質ゆえに(力)は徹底的に排除しなければ“やわら”は見え
てこないのだ。
それには、“玄”のエネルギーポテンシャル(呼吸)を高めなければな
らない。そのエネルギーを高めるには学習とトレーニングしかない。
更に、進化する必要がある、進化しようとするには何かを捨てなけれ
ばならない。それは(力)だ。
そのように、(力)を徹底的に排除することによって、実際に法とな
り得る要素は発現し始めた。そのエレメントは宇宙と同じく千尋であ
るから筋力でないものが相手を動かし得るということが、確かに少し
ずつ明らかになってきたのだ、概念的ながら、“玄”の質を示すものと
してエネルギー量や(力)の大きさそのものを示す物理方程式ではな
いが“玄”というものを漠然とでも把握するため、また、その構成要素
を理解するための助けになると思い、示させていただいた。

    ・“玄”と“やわら”の概念方程式

私だけの定義。勿論、普通は重力の大きさを変へることは出来ないが
私自身が体で証明したものを、この書籍で公開する。
玄=1/パワー×重さ×1/(正時間ー時間)2×肘/手1/パワー→パ
ワーが弱く成れば成るほど玄が大きくなる。
1/(正時間ー時間)2→バランスのとれた時間肘/手→手のパワーが
強い1/(正時間ー時間)2→バランスのとれた時間肘/手→手のパワ
ーが強いほど肘が使えない。肘が働かないときは玄も消えてしまう。
勿論、膝も同様である。

 “やわら”=玄、そうして、その玄⟺力(相対)

 “力”=形、そうして、その形⟺象り(相対)

 玄=重力×千尋

 重力=肘の捻り×ポテンシャル(呼吸)スーフー

 千尋=“円”×象り

 象り=歩×景色

 歩=歩六法(捌き)

 景色=自分の舞う姿×相手の動作

 舞=点×線×面

・点×線×面=接触の三用
・ポテンシャルの(呼吸)は、重力のバランスを整える。
・小指の点は、(力)の大きさを無くする。
・肘の捻りは、重力を大きくする。
・膝の屈伸は、体の移動を柔らかくし、手の圧を透明にする。

これで“象り”がどのように作用するのか解釈することが出来たが、そ
の用途は何か? それは景色を“象る”では景色とは何か?
景色とは、掴む、殴ぐる、蹴る、短刀を使う、体当たり、足取り、そ
れ等の動作は景色であるが。また、その景色を象る姿も景色と言う。

変化=正×奇

寄正の変→変化の基本は正と奇の二種にすぎないが、正は奇を生み奇
は正となり、これを組み合わせれば、色の三原色と同じく無限に変化
する。もう少し“玄”の事を考えて見よう。
万物の根元、つまり宇宙を構成している実体は、すべて の銀河とその
周辺には通常の物質の10倍もの、未知の物質が漂っている、それが
暗黒物質(ダークマター)だ、そして通常の物質はダークマターが存
在するところに集まつている。もちろん、自分達の周りにも存在する
だけど、通常の物質4%とダークマター23%の総量は、宇宙の曲率
を0にするのに必要な量の27%しかないらしい。宇宙の曲率を0に
する、必要な量の残りの73%はダークエネルギーだが、その正体は
分からない。と…………アリゾナ州立大学宇宙物理学者のローレンス
・クラウス教授が曰く。
この宇宙を動かす暗黒物質を象水流は“玄”と記号する。
万物は流転する。それが宇宙運動の原則であり、“やわら”の運動形式
でもある。だから、“やわら”は一定不変のものとしては、とらえる事
はできない。
老子の言葉を引用すると、本来、宇宙は無限定なものであるから「無
」としか言えないが、時間と空間に制約された現象として万物がある
から、「有」と見ることができる。両者はじつは同じ本体から出てい
る。「無」とは常にものを生み出そうとするもの、「有」とは常にも
のを滅亡へ向かわせようとするものである。
「無」と「有」この両者は対立と転化を含んで、止むことがなく運行
する根元の作用、それは奥深くて、はかり知れないから、“玄”としか
形容することが出来ない。 と老子は曰く。
その根元的な“玄”なるものから、あらゆる変化、“象り”が生まれる、
その様であるから、「無」と「有」のように“玄”と言う記号と「力」
と言う記号は相対であると思える。
だから“玄”の(弱)が(力)の(強に)勝ることが私の考へだ、その
現象をこの書であらわしたい。
またそのことを述べながら実例する“象り”の結果を具体的に“象り”を
第八Chapterで紹介していきたいと思う。
勿論この第八Chapterの“象り”は先の章に続く「突いてくる“象り”」
「蹴ってくる“象り”」「体当たりの“象り”」「短刀を持つ“象り”」「柔
道の“象り”」「足取りの“象り”」「蹴りの“象り”」等、その“象り”を最
大に発揮できるようにする為の要素が第八Chapterに含まれている。 

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