パワーを入れない遊び

     パワーを入れない遊び

07 ・達磨崩 Darumakuzusi
08・達磨崩(A)Darumakuzusi
09・達磨崩(B)Darumakuzusi
10・達磨崩(C)Darumakuzus i
11・発見した技をなぜ隠すか
12・私の体を動かしたもの

     

     ・達磨崩 Darumakuzusi YouTube


(一図)   双方相対して向き合う
   (受方)両手を握って拳にして前に水平に出す
   (捕方)小胸筋をリラックスにして受方の両拳の上に両手の
       パワーを抜いて乗せ
(二図)   核と肘で受方の両手を優しく圧する
(三図)   少し膝を屈し更に圧する(パワーを入れない)
          
このように互いに圧して遊ぶことでパワーでないエネルギー(玄)
を知ることができ、その(玄)で相手を象ることになる。
最初はなかなか相手を圧することが出来ないが、お風呂の湯水を手
で圧するか、手を浮かす感覚を、なんどでも稽古の積み重ねが大切
ですね、地道な努力こそが成功の秘訣です。

     ・達磨崩 A Darumakuzusi 

 

(一図)   双方相対して向き合う
   (受方)両手を握って拳にして前に水平に出す
   (捕方)小胸筋をリラックスにして受方の両拳の上に両手の
       パワーを抜いて乗せ
(二図)   核と肘で受方の両手を優しく圧する


(三図)少し膝を屈し更に圧して相手を膝から崩し
(四図)千尋を描きながら右足を受方の右側に踏み込み
(五図)左足進めながら受方を倒す。

     ・達磨崩 B Darumakuzusi


(一図)   双方相対して向き合う
   (受方)両手を握って拳にして前に水平に出す
   (捕方)小胸筋をリラックスにして受方の両拳の上に両手の
       パワーを抜いて乗せ
(二図)   核と肘で受方の両手を優しく圧する




     ・達磨崩 C  Darumakuzusi


(一図)   双方相対して向き合う
   (受方)両手を握って拳にして前に水平に出す
   (捕方)小胸筋をリラックスにして受方の両拳の上に両手の
       パワーを抜いて乗せ
(二図)   核と肘で受方の両手を優しく圧する
(三図)   少し膝を屈し更に圧する(パワーを入れない)


(四図)千尋を描きながら左手を受方の右拳の内側へ
(五図)捻りながら手甲側で受方の右拳を受方の背後に廻し上げ同時
    に我が右手掌で受方の左拳を圧しながら
(六図)甲側に捻り受方の右足元へ引きながら掬い同時に受方の右拳
    を大きく受方の左側に廻し送り我が右横に投げる。

   ・発見したものをなぜ隠す

  “やわら”と言う“象り”は古の伝書をさがし見聞しても、見い出す
ことが出来なかった。ない以上は、自分で見つけ出さなければならな
いと思う。自らの体をもって、それは、途方もない道のりだ、私が心
がけていることに「発見すべし発明するなかれ」と言うものがある。
だから“象り”を作り出そうとしたのではない。 
「疾風に勁草を知る」想像では良いものは発見できない、何もないか
ら発見がある。見つけ出すのだ。優しくなれる。成長できる。
 自ら“象り”を修め、また古の文書の中で“象り”を探し求める中で思
い至ったことがある。「技をなぜ隠す」と言うことだった。
それは、隠すことは初心者のために、隠さなければ初心者に信頼を得
ることが出来ないと言うことで、そのような事は一つの方法論に過ぎ
ない。だから、隠すことの全ては物事のすえであり、奥義、極意はも
ともと、秘技ではない。貴方の目の前にある、「まつ毛」のように。
それはすべての人の宝である。
 初心者は何の考えもなく軽く習い、“象り”の景色も分からないうち
に他の人に語るものであるから。その時は却って、その人の害になっ
ても利益にはならない。だから、得心のできる人でなければ、妄りに
教えないものである。
 その習いの深きに至っては門下生でなくとも、執心の深き人に教え
ても隠す必要はないもので、しかし一切の“象り”を正道に隠す必要が
ないと言うが、古に至っては“象り”が人に知られる事により自分自身
が危険になった。ですから“象り”によっては隠密にすることもある。
(それは古の兵法の在り方)また、他流から、その“象り”を見て評価
の大小を付けることを嫌って隠すこともあるが、一概に論ずることで
はない。
 しかし、私の見聞したことによると、隙間武芸も多く、“象り”を知
ってか知らずか、正伝をよく隠し自己流化する人も多いようだから嘆かわしい事である。ただ『邯鄲の歩み』には成ってほしくはない!
(他人の行為をまねようとして、自分が持っていた技までなくす)こ
とになる。
 ところで柔術の中に(力)ではなく、言葉(催眠術)等で技をかけ
ている者がいる。
 一つの例ですが、私が逆を掛けるときに、相手に肩なら肩、膝なら
膝と暗示して逆を“象る”と、相手に名指しをした、その場所を極めら
れたと相手が思う、これが催眠術である。念のため。

     ・私の体を動かしたもの

 ある時、私は駅に停車した電車に乗って発車の時刻を待っていた。
 突然、私の体が揺さぶられた。停車中なので、いわゆる電車の動き
による揺れではない。これは、何のことはない。一人の乗客が車両に
乗り込んできただけの事だった。
 電車の車体は、線路からの振動、揺れを吸収するため、乗客が乗り
込む部分が、台車に対して動くようにできている。誰でも知っている
ことだがそれによって自分の体丸ごと動かされてみると、この時は驚
いてしまった。動かされたのは自分一人のみならず付近の乗客らを含
めて丸ごとなのだ。
 しかもその原動力は、さして頑張って“動かそう”としている訳でも
ない、本当に何気なく乗り込んできた乗客一人によって動かされたの
だ。
 ここで起きた現象自体は、物理的に明らかに説明がつく。ただ、私
を驚かせたのは、まったく力んでいない一人の人間の行為が、何人も
の人達の体を動かしてしまったという事実だ。
 私たちは、自分が生きているこの世界の理というものを、思ってい
るほど理解していないのではないだろうか?
 物や人を動かすには頑張って筋力を稼働させて大きな(力)を発生
させる。それしかないと思い込んでいる。しかしおそらくそうではな
いのだ。私の体がはからずも電車の車両ごと動かされてしまったよう
に。それが見つけられたら、筋力に頼らずとも“象り”を為せるのでは
ないだろうか“やわら”の実現はそこにあるのではないだろうか。
そう感じたのだ。ふと思う。この自然界は私たちが思っているような
目に見えて明らさまな(力)のようなものだけで動いているだろうか
? 明らかに“否”だった。
(力)は相手がなくては働くことがない。では、相手があってどのよ
うにして(力)で無い“象り”を作れるか、それは“形”でなく“象り”で
ある。だから「自分をしるには他者性が必要だ」私の他者性は教える
相手に限らず、私と性質のちがう何かだ。
 その何かは、一人の人間が多くの人を動かす、それは何故か?
 先ほど述べた電車が主体であったように、私は常に“象り”を意識し
て、新しい発見を求めながら、一人稽古でバージョンアップしている
その主は“玄”と言うダークマター(暗黒物質)である、その暗黒物質
で景色を“象る”そして、その“象る”景色が変わったときは、新しい発
見と出会ったとき、それは進化した暁である。その進化した“象り”は
誰が見ても心よい景色だ!
 次はいよいよ(力でない)“やわら”の主となす“玄”につづく。

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