第八Chapter ”象り”

        “象 り”

01・水の変化性         
02・象る”エネルギーは“呼吸”
03・“呼吸”を聞く
04・形と“象り”の違い
05・八重垣古式(形)Yaegaki(old)
06・八重垣進化(象り)Yaegaki(new)
07・“象り”のイメージ
08・“象り”とスポーツと“舞”
09・手解は“象り”の扉
10・不安と向き合うから進化する
11・“象る”理法
12・紅葉返 Momijikaesi
13・紅葉返(一人稽古)
14・“象り”の稽古
15・千 尋 Tihiro
16・千 尋(揺篭) Yurikago
17・千 尋 (響波)Yuranami 

   ・水の変化性
いよいよ本ページから“象る”本題の意の究極にはいる。
私は“やわら”の追究にあたって、まずは伝書の類よりも老子の言葉に
ヒントを求めた。
老子曰く、水はぶつかるから曲がる。曲がるからまっすぐになる!
水の性質は柔らかく弱い。自然に従い争うことはない。相手に従うと
いうことだ。水は自らの意志で何かを施そうとするのではなく、その
瞬間に方処に従って、変転流動して、自然のあるべき景色に自由に変
化する。水は自らの意志で動いたり、止まったりする訳でもないが、
水は最高の芸術家でもある。
剣聖武蔵の「五輪書」の下敷きとなったとされる「兵法三十五箇条」
に次の言葉がある。
心の持ち様は、心を水にして折りにふれ事に応ずる心なり。水に碧潭
(深く青々とした淵)の色あり、滄海(大海)もあり。
能々吟味あるべし。とある
 水は自らの意志で動いたり、止まったりする訳でもない。
水がどのようになるかは、周りが決めているのだ。だから周りの状況
をもれなくキツャチして、それに沿って、下へ下へと低きところに向
かって流れ、止まることがない。しかも、その動きには無理がなく、
その先は大海に行き着き、絶対に負けはない。さらに、その変化は穏
やかで、いささかの乱れもない。
まず、私が気付いたのは、この水の“変化性”だ。
武道には形がある。その形のことを技と言う。その技を掛ける動作は
(力)で形を作り、その形を(力)で投げる、すなわちすべては(力
)で制御されている。しかし(力)で制御しょうとするならば、相手
が自分よりも(力)において上ならば、その技の形は木端微塵に壊れ
て消滅する。
だから、その在り方を(力)でなく、水の流れのように、相手の行動
に沿って、変化しながら“象る”のだ。
(力)によらない技、といっても、相手と自分とではやりたい事が違
うのだから、どうしてもぶつかり合う関係になりがちだ。ぶつ かり
合いは(力)比べだ。この、ぶつかり合う関係を回避するのがまずと
んでもなく難しい。
相手の(力)をかわし続けるか?
それは追いかけっこだ。
いずれつかまるだけだろう。
相手の(力)に合わせて動くか?
ピタッと同化するかのように。それもどうやら無理だ。しかし水はそ
れをやっているのではないか?
渓流はピタッと岩肌の形に同化するかのように流れている。
そうかと! 気付く

                                                  ただ方円に“象っ”ているだけなのだ。必死に吸着している訳でもな
いのに、なぜにこれほどピタッと?
それは“象っ”ているだけだからだ。この“象り”が、私にとってはとて
つもなく大きな発見だった。相手と同化してしまうのは、ある意味で
相手の攻撃を食わず(力)で制せられることもない一つの“理想郷” だ
 しかしそれは必死で追いかけても、ピタッと吸着しようとしてもか
なわないのは自明の理。そこに“象る”と言う第三の方法論が存在した
のだ。
 繰り返し言うが“象る”の中に(力)は要らない。脱力しろうだの余
計な力みをとれだのと、今はスポーツの世界を含めて広く呼ばれるよ
うになったが、入っている(力)抜こう抜こうとするよりも、そもそ
も動く目的を、大きな(力)を生み出したり、何かを動かす大きな仕
事をしょうとしたりするのではなく、最初から、(力)を入れないで
肘で“象る”ことを目的にしたら、うまい具合に力みのない動きができ
るかもしれない。
 大事なことは動作の中に相手の作用を(力)感じた時は、自分が
(力)を入れたから、相手が(力)を感じて(力)に向かうからだ。
その時は、小胸筋を緩めることを進める。
 このスピーチを参考にする方は「力んでしまってうまくいかない」
と悩みを少なからずお持ちならば、“象る”前に肘関節も意識すること
を一つご提案する。
 あなたの動きに“革命”が起きるだろう。

   ・“象る”エネルギーは呼吸

普通、エネルギーとは、さまざまに結合して万物となるが、人もまた
呼吸によって生命活動をエネルギーによつて維持している。
“象る”エネルギーは“玄”、“玄”のエネルギーは呼吸である。
極端に言えば“象り”は呼吸で生じるエネルギーで景色を象っている。
そのエネルギーは、息を(酸素)吸って体に取り込んだ酸素は細胞の
中で酸素を用いて、酵素が有機物を分解し、そこからエネルギーを取
り出す。その、仕組みを、呼吸と言う。Eテレ講座生物基礎(呼吸)
より。その、する呼吸は体内で有害な酸素を(フー)と息を吐いてか
ら穏やかに(スー)と息を吸う。それは、“象る”時も同じだ。
まず“象る”プロセスは気を(核)に置き、鼻で息を吐き鼻で息を吸う
息を吐くときは(フー)その“象り”は重い。息を吸うときは(スー)
その“象り”は軽い(フー)で息を吐き(スー)で息を吸う。
無言で(フー)(スー)と呼吸をしながら“象る”その“象り”は相手の
行動に従がって、(スー)と核で息を吸い、(フー)と核で息を吐く
それが“玄”と言う記号のエネルギーだ。
“やわら”は無為自然の在り方だから気合と言う堅いものはいらない、
またパワーと言う強いものも必要としない。
もしパワーが見えたら(スー)と息を吸い、(フー)と息を吐く、小
胸筋を緩めると全身のパワーが抜ける。
(フー)と言う微言は必ず息を吐くことを要とする。 
(スー)と言う微言は必ず息を吸うことを要とする。
試しに、誰かに手を強く握ってもらい(スー)で息を吸い同時に小胸
筋を緩め(フー)で肘を伸ばすと相手が崩れる。 (呼吸の重さ)即ち
第六Chapterの“犬笛”の“象り”である。
この微言は“フ ー スー”そしてこの深奥の微言の二音で“象る”と総ての
“象り”はパワーにはならない。そして呼吸の酸素は相手に重さを与え
る。ここで一言、巷で曰く呼吸法は“やわら”では役に立たない。

   ・呼吸を聞く

宮本武蔵“五輪之書”に「背く拍子を知ること兵法の専らなり」とある
これは、相手の呼吸を外す意味である。
呼吸は、吸う、吐く。隙が生まれやすいのは吐くときである。
息を吸うときは、無意識のうちに全身を緊張するが、吐くときは逆に
弛緩する。その弛緩する虚を象ると相手の動揺が大きい。
息を吸う、 吐くにしても,息を潜めるのが最善手だろう。
また、相手が顔面を突いてきた時などは、同時に攻撃をする、その場
合は捌きながら、耳で相手の拳を聞くことが最高だ。

   ・形と“象り”の違い

 一般に、多くの武術ではぶつかりが発生する。このぶつかり合いに
勝つには、(力)の強い方、重い方、などとなる。ほぼ例外はないな
ぜこの当たり前のようにぶつかり合いが生じてしまうのかと言う、実
は形を作ろうとしてしまっているからだ。
意識するしかないに関わらず。ほとんどの方が行っている動作は形を
作る行為だ。
 例えばある動作を実際には行わずに“イメージ”だけで行なってみて
ほしい。一番強く“イメージ”されるのは最終形なのではないだろうか
それは、意識も体動も、そこに向かって成っていると言うことだ。
 相手と自分がそれぞれに勝手に“形を作ろう”とすれば、それはいわ
ばお互いのエゴだ。双方のエゴは両立しない。ぶつかり合って勝負に
なる。
 弱い方が押し込まれたり、破壊されたり、と言うことに必ずなる。
“象り”には「どういう形になろう」などと言う最終形“イメージ”など
はない。相手に応じて“象る”だけだ。(力)によって相手に勝という
発想もない。
 水は地によって変化し、流れ易き処を見出すように“象り”も(力)
を避け、“象り”易き景色を見出すことだ。
気を付けていただきたいのが、“象る”とは「相手の体の輪郭をなぞる
こと」ではないことだ。
これをやろうとしても、相手が動けばすぐについて行けなくなる。
あくまで“象り”易き景色を見出す感覚が重要だ。
自分の働きが立ち行かなくなったら、必ず何かがぶつかっている。そ
の瞬間誰もが(力)ずくで突破しょうとしてしまう。それさえしなけ
ればよいのだ。どんな瞬間にも必ず“象り”易き景色がある。それはそ
の時点で(力)小胸筋を抜くことだ。それを感得すればよい。
 第三Chapter小胸筋参照そして力まなければ、そのセンサーも敏感
なままで機能してくれる。とにかく、相手に(力)を入れさせても、
自分は(力)で仕事をしょうとしてしまわないことが重要だ。。
“ぶつからない”を術理として掲げている武術はいくつもある。しかし
実際に行うのは至難の技だろう。「抵抗しないで身をゆだねる」では
相手の好き勝手にされるだけで終わってしまう。
相手の動きについて行って同化しようとしても、どこかでズレが生じ
てしまう。わずかなズレでも、それはもはやぶつかりだ。
いったいどうすれば良いのだ?となるのも無理はないが、そんな方に
この“象り”は役に立つと思う。

   ・古式小手車 (八重垣)YouTub

                                                 (一図)(受方)右足を進めて右手で捕方の左手首を取って引く
(二図)(捕方)其の瞬間、受方の右手を千尋でまわし廻し上げ
(三図)    右足を左足の踵へ退き受方の右手を右手で取り

                                                 (四図)左足を受方の横へ踏み出しながら受方の右手を上げ同時に左
    小手を受方の右肘関節に当て同時に我が右手首を掴
(五図)右足を受方の右足の裏側に踏み込み
(六図)右小手を受方の右肩口に当て左足を横へ開きながら腰を捻っ
    て受方を投げる。

     ・進化の象り (八重垣)YouTube

                                                 (一図)(受方)右足を進めて右手で捕方の左手首を取って引く
    (捕方)其の瞬間、千尋を描きながら受方の右手を廻し上げ
(二図)    右足を左足の後に退き肘を捻りながら受方の右手を
        下方に廻し下し
(三図)    左足を受方の右足の横に踏み出しながら受方の右手
        を順に取り

                                                 (四図)左手で受方の右肘を押さえながら右足を浮かし
(五図)前に踏み込みながら我が右肘を受方の内腕に当て
(六図)同時に受方の右手を受方の右肩に向けて伸ばし受方の右肘
    を圧して投げる。
 この八重垣は更に進化した八重垣で前の(三図)~(五図)の象
 りが上図のように変化した。
 形の勢法は堅い、象りの勢法は柔らかい、その違いを説明した。

   ・“象り”のイメージ 

“象り”は、相手を攻めることをしない。相手の心を“象る”のだ、ほと
んどの武術、格闘技は、(力)を使う。(力)を使って攻める“象り”
は(力)が為す仕事ではない。
だいたい武術格闘技は、技を為そうとする。投げ技なら“投げよう”と
する。しかし、この“投げよう”とした瞬間に“象り”ではなくなってしま
うのだ。それは、手や腕の筋力で投げようとするからだ。
まるでモータ(機械)に使われる手足(道具)のようなものだ。
“象り”は機械(モータ)でないから手、足(道具)を無視して“玄”を
をイメージし、自然界のエネルギーで膝や肘を使うことだ。
 無為の自然体を極意とする。(為さずして為す)
 老子は「上善如水」(じょうぜんみずのごとし)と言う言葉を残し
ている。最上の善なる在り様は“水”のようなもの、と言う意味だ争わ
ず、ただ低い方に自然に流れるのみ。
 しかし争わない、とかぶつからない、とか言っても、これに逃げ回
うよるな“イメージ”を持ってしまうといつまでたっても“象り”にはなら
ない。そこでまずはこんな“イメージ”を持ってとらえてみてほしい。
景色を“象り”にするプロセスの最初歩だ。 
川の流れにピンポン玉を浮かべて、その球をつまみ取ろうとすると下
に流れて行く。これを“象り”に置き換えてみると“象り”はI(アイ)
N (エヌ)G(ジー)で進行しているから、相手が止めようと思って
も次の場所に移動してしまってとらえきれない。しかし相手はそれを
追い、仮にとらえたとしても、その瞬間に、相手は自分の(力)の反
作用によって体を崩す。(反作用のメカニズムは前章で詳述)“象り”
の進行中は相手に従っており、その進行中から結果が出る瞬間に変化
する。“象り”の変化こそが“やわら”の本質だ。
前ページ・“玄”と“やわら”の概念方程式で述べた。
“やわら”=玄!
変化=寄×正と示したのはそう言う意味合いが含まれている。

   ・ “象り”と“スポーツ”と“舞

 野球における会心のホームランは「ほとんど手応えのない感覚であ
ると言う。
力一杯握りしめたバットで、前腕~上腕~肩……を全出力させつつボ
ールの威力を全部受け止めて、渾身のスイングのように思っている方
も少なくないと思うが、そんなことはない訳だ。
むしろ軽く最低限の(力)で持ったバットで何気なく、“為すべき様に
為しただけ”みたいなスイングこそ会心のホームランを生むのだ。
スポーツの世界においても、不要な力みが功を奏しないのは、もはや
常識レベルで認知されている。
一流選手のプレイはパワフルでアグレッシブと言うよりは、ナチュラ
ルで美しいと形容した方がふさわしい、私は“やわら”の理はスポーツ
にも、百般に通ずると思っているそれは、自然界と同じ在り方だから
だ。古の武芸のルーツをさかのぼれば、出雲のお国の舞う芸者が源で
武芸という言葉は、現今では「武道」「武術」とほぼ同義に使われる
がその中身はけっこう違うと思う。
“象り”は“舞”だから、“踊り”と同じく芸なのだ。“象り”は(力)で大
きな仕事をする必要はない。美しい“舞”は美しく見せる技術に長けて
いるから美しいのだと思っている人もいるかもしれないが、私は美し
い“舞”の本質は、自然界に則った在り様だと思う、心にも体にも力み
や制約がなく景色を表現される“舞”は、誰の心も魅了する。
“舞”で景色を “象る”ことによって表現するのが芸術だろう、画家が絵
を描くのもそうだ。景色を“象る”から、目に見えない真実が見えてく
るのだ。そして最終に示す“象り”は歩舞(ホップ)と言う舞である。
これは、すべての“象り”に使うことが出来、象水手の中では会話をし
ながら必ず歩舞が使われている。

   ・手解は“象り”の扉(とびら)

人が“象り”を最大に発揮できるようにするには“象り”を生み出すため
の色々な要素が必要である。その要素は(力)ではなく過去のしがら
みを砕く呼吸のエネルギーにある。
そのエネルギーで “象る” 景色は扉の先にある、それは手解きと言う扉
である。何故だろう? 
その手解きとは、打拳や、衣を掴んでもみ合いになる場合は、心も精
神も安定が崩れる事から、手解きの“象り”を繰り返して稽古するのである。
その“象る”意識の高まる中で稽古する道を歩んでいると “進化”する
礎になるからだ。
 なんと“進化”するとはポジティブな響だね、心がウキウキする。
で、誰が決めた。私だよ、そう一気に変わりたいね~でも、少しづつ
変わる事だってありだよ、その方が“象り”の結果が表れるから次のス
テップの景色を思うように、舞う“象り” が新しいステージへ向かう。
 そうで、なければならない。

   ・不安と向き合うから進化する

 前ページで述べた“象り”を毎日稽古して不安を感じるかと、聞かれ
たら、私は有るようで、無いようで、どちらとも言えないが、“象り”
に不安があれば、悲観的になり“象り”に不安がなければ、楽観的にな
になり進歩がない。“象り”に不安があると(力)になって“象り”が
(形)になってしまう。
どちらに偏ってもプラス(+)にはならない、だから不安を払拭しな
ければならない。不安を取り払うには、水が方円の景色に従って流れ
るように“やわら”を理解しなければならない。
理解して稽古を積み重ねれば“象り”の発展も伴い“象り”の知識もどん
どん新しくなっていく新しい知識が身に付くことは“象り”が進化して
いるのだ。まだ見ぬ”象り”(景色)の先を追求したい。
 今までは少し難しい話でしたが、大リーグ、マリナーズのイチロー
選手が2019年3月吉日に引退しました。
其の時の子供たちへのメッセージです!
「自分が熱中できるもの、夢中になれるものを見つければ、其れに向
かってエネルギーを注げるので、そう言うものを早く見つけてほしい
其れが見つけられれば、自分の前に立ちはだかる壁に向かっていける
向かう事ができると思う。
色々な事にトライして、自分が向くか向かないかよりも、自分が好き
なものを見つけてほしい」
 此の言葉は、子供たちだけでなく、皆さんにとっても素敵なギフト
(贈り物)だと思います。

   ・“象る”理法

ここで、実際の理法を紹介しよう。
次の図は「紅葉返」と言う勢法で、私にとっては“象り”の重要性を最
も早くに感じたものだ。
この勢法は特異な足捌き“歩六法”で(千尋、点、線、面)とさまざま
な要素が入っているが、ここで一番言いたいのは、相手にぶつかる、
別な言い方をすれば相手の動きに逆らうような動作を一切していない
と言うことだ。
相手を裏へ倒す動きも、相手の上体を無理やり後方へ(力)を与えて
いる訳でもなく(そうすれば相手に抵抗されるだけ)かと言ってその
ように腕を無理矢理捻り上げている訳でもない(これもやはり抵抗さ
れて防がれる)“象”っているだけなのだ。だから(力)も要らぬから
このような勢法になる。
相手を裏に倒そう、と言う気持ちが先行すると、どうしても、(力)
を与えて、相手の体に対しいて“仕事”をしようとしてしまう、しかし
これをしてしまうだけでも、まったく“象り”にはならないのだ、これ
だから“象り”の起こりは背骨の緊張を緩め、“核”の中に住む“玄”で柔
らかく、自然と調和したその時の景色を“象る”その“象る”終わりは肘
関節の回転と重さで相手を圧し、穏やかに自由にしておくことだ。
それが、嬉しくて!  そのようでないと使い手が窒息してしまう。

     ・紅葉返 (momijikaesi )YouTube

(一図)(受方)右足を進めて右手で捕方の左手を取って引く、
    (捕方)其の瞬間、脊椎を緩め核で千尋を描きながら肘を捻
        り受方の右手の内側から掌を上に向けて丸く廻し上
        げ
(二図)    右足を左足の後に退き受方の右手を廻し下しながら
        右側に送り
(三図)    同時に受方の右手を右手で掬い

(四図)左足を受方の右側に踏み出しながら受方の右手を受方の右肩
    口に送る(この時受方の右手を我が左手の親指を受方の手甲
    の右小指の第三関節に当て後の四指は掌をつまむ)
(五図)その親指の上に右手掌を重ねて右足を進め
(六図)左足を踏み出し受方の右手を圧しながら受方を倒す。

   ・一人稽古
“象り”の操作は難しそうに感じられる方もいるかもしれないが、よ
い一人稽古法がある。簡単と言えば恐ろしく簡単な稽古法だ。
前に述べた“象り”は変化するもので紹介した基本勢法の「紅葉返」の
キーになっているのは“お辞儀動作”だ。この動作を一人で行うそれだ
けだ。前にのべた千尋もその通りだ。
記憶を繰り返すが、“象り”の最大のポイントは虚実をよく見て「相手
の体に対して仕事をしない」と言うことだ。この感覚を得ないまま対
人稽古に取り組むとすれば、この「相手の体に対して仕事をしない」
は至難の業となる。それが、このように一人で単純動作として行う分
は、大概の人がうまくできる。だからこの動作感覚こそが宝なのだ

   ・紅葉返~ (一人稽古)


(一図)自然体のところを受方が右手で我が左手を取る
(二図)我はは内回しの千早で左肘を内側から捻り
(三図)上方に廻し上げ(掌を上に向ける)

 

(四図)次に掌を捻り戻し下方に下げながら
(五図)左側に受方の右手を送り
(六図)受方の右手を右手で受けながら右足を左足の後へ退き

 

(七図)左足を受方の右足の横へ踏み出し左手の親指を受方の右手
    甲の液門に当て後の四指で受方の親指の内側を掴み
(八図)右足を進め同時に受方に波心を掛け
(九図)受方の右手を圧し我が前下に倒す。

   ・“象り”の稽古
 自分のペースで稽古する、それも繰り返し稽古すると、自分の頭
で考えてマネジメントする“象り”が身に付く、その稽古は小脳で覚
える事が良い、そして相手の攻撃を返す変化。
 けれど、このような一人稽古をしても実際の対人勢法では同じ型
にならないのではないか、と思う方は多いだろう、その通りだ。
 相手によっても、またその瞬間瞬間によっても“象る”と言うもの
はまったく同じ“象り”などにはならない。だから稽古の更新を続け
ることだ。また、そこで必要なものは何か?
“変化”だ。最初の“やわら”とは、前で述べたように、相手の変化に
対して虚実を知って、その変化する状況の中で、人が一貫性を維持
する方法はただ一つ、それは、状況に合わせて変りつつも、決して
重要な目的を見失しはない事である。しかも、手足の働きを習わし、
一体でなければ変化に応ずることも制する事もできない。だから
“変化”はその場その場で自然に生まれるものだ。
 寄正の変わりは相手の体に対し無理矢理な加力さえしなければ!
 それが“やわら”の方法論だ。
 繰り返し言うが、“象り”は慣性だから(力)は要らない。脱力
せよだの、余計な力みをとれだのと、今はスポーツの世界を含めて
広く呼ばれるようになったが、入っている(力)を抜こう抜こうと
するよりも、そもそも動く目的を、大きな(力)を生み出したり、
何かを動かす大きな仕事をしようとしたりするのではなく、最初か
ら(力)を入れないで肘で“象る”ことを目的にしたら、うまい具
合に力みのない動きができるかもしれない。気を付けなければなら
ない事は(力)を抜こうと思う心が、(力)になるから、そのよう
に(力)を抜こうと言う気を持たないことだ。
 また、手首を掴まれたら、また、袖を掴まれたら、その手や袖は
どのように離せるか、いわゆる「手解き」の方策をあれこれと心得
へねばならないような気がされる方も少なくないかもしれいながあ
まりそうゆう所には気をとられない方がいい、手は取れらた時は前
に述べたように手は“すでに解けている”と思うことである。だか
ら、その手は解こうとしてはならない。その、取られた手は「柔六
法」の千早を使い“象る”ことにつなげることが総ての勢法に必要
なのだ。要するに千早を使うことだ。以下にご紹介する勢法例にお
いて、図のように相手を千早で動かすそれができたらもうその瞬間
で、手が“解けている”のが分かるだろう要は「掴んでくる相手に
対して(力)で離すこと」そのような行動さへしなければいい。必
ず“象れ”る。
 本ぺーじでは“象る”ことを解説した。相手が強硬に来たからと言
って対抗して力むことはない。何か良い格好を自ら形づくろうとす
る必要もない。相手に従い為せるべきように“象れ”ば結果は付いて
くるのだ。
この、電子書籍を参考にして下さっている中には、すでに何らかの
武術やスポーツを志している方も、少なくないと思うがそこで「力
んでしまってうまくいかない」と言う悩みを少なからずお持ちなら
ば我が流の心は貴方がたの下に立つ。
ですから、この千尋で“象り”を意識することを、一つご提案してみ
たい。次の図で、その例を示す。あなたの動きに“革命”が起こるか
もしれない。
また第三部にのべた千尋参照もそのようで、その感覚も感性で作られ
た感覚は素晴らしい。
その感覚の素晴らしいのは、常に前日の自分の“象”の練習を今日も超
え、また、明日も同じ姿勢で超えていく。
その姿勢だから、心ある象りが出来上がる。
しかし、錯覚がともなうから、私は、感覚に頼よらず心の働きに従い
人の体に備わった動作を“象”って行く、だから、どんなに筋力がから
みついてきても、(力)で押してきても、私の使う肘関節は壊れるこ
とはないと、同時に脊椎の関節も壊れることはない。

 

                                    次のページへ