はじめに

“老子曰く”弱は強に勝ち、柔は剛を制する、この道理はだれで

も知っているが、実行できるものはいない。この老子の言葉を考

える。

現代の“やわら”を観察すると、先人から果てしなくつづいた、歴

史をもつ“やわら”とは何だろう?

頭に浮かんだものが(柔道)(柔術)(合気道)等だ。それは、

“剛”よりも“柔”の方が実は強いのだ、という考えかたが大昔に

発見されていた。それほど普遍的に真理をあらわしている言葉

です。
しかし現代の(柔道)(柔術)(合気道)等を観察すると、果たし

て柔弱は剛強を制す、その理が本当に証明されているのだろ

うか?

私には剛強の二者だけが尊重され、柔弱の二者が全く見あたら

ない、

どのように思案しても“やわら”と云う、言葉のアイデアがどこから

来たのか私は考えさせられた。

しかし、古代の兵法書“軍識”では「柔よく剛を制す」「弱よく強

を制す」と語られているが、現代では一般の人の心得のようでも

ある。

それほど普遍的な言葉であるから感心させられる。

さらに、柔と剛、弱と強、の四者をわが身に備え知れば、時と場

に応じて硬軟を自在に対処することが大切であると、くどいて

いる。

この言葉はふつう、“三略”であるとされているが、そのもとにな

っているのが道教の“老子”だ。 

………およそなにが柔らかいか、弱いといっても、水ほど柔らか

く弱いものはない、そのくせ、堅く強いものにうち勝つこと、水に勝

るものはない……………………………………………………

これは、水が弱さに徹底しているから、弱は強に勝ち、柔は剛を

する、この道理はだれでも知っているが、実行できるものはい

ない。

と云々(“老子”原典第78章)164ページより

さて、その“やわら”が尊ばれているはずの、現代の「柔道」は、

競技化された宿命もあって、柔軟なスタイルは見えず、スピード

と筋力で相手を崩し、筋力で技を先んじて掛け、筋力で投げ、

筋力で抑え込む事を目指している。

そのためには(力)とスピード、そういう選択をして、自ら積極的
に技を掛けに行かないと、減点されるルールさえもあるから、柔

道と言うスポーツは、ある意味では、仕方のない事かもしれない。 

しかし、“やわら”と言う武芸は、そのようにならない、それは筋

道具でない、だから道具に使われる事はない。

勿論、筋力は使わない! ではどこを使うか? それは背骨だ。

そのコツを感性の中から心得れば容易である。
やはり柔道、柔術は“やわら”と言う言葉が普遍的な真理である

と同

時に、武芸において見出された、絶対の勝ちを得る唯一の方法

と、核心の理は、かなり違うプロセスだ。

私は今日至るまで、柔術、拳法を40年間修練した中で“殺法”

十二門拳の要穴を主にして、十二時気血行跡の要所まで究

る事が出来た。

(天心古流拳法伝)打衝編 島津書房発行 平成九年十二月

五日。

しかしふと思ったのだ。そんな武術が、現代において果たして意

があるのだろうかと。

そこで、その武芸をきっぱりと捨てた。

“やわら” という、次の夢に向かって挑んだ私は、今まで、解明さ

れていない“やわら”は何処にあるかさっぱり解からない。

ない以上は、自分で見つけ出さなければならないと思い、自らの

をもって。

そして、途方もない道なき道の理を追求した、数年の努力の垣

間のなかで色々な現象を発見するが、いつも象りがこわれてい

い結果がでない。

しかし、(力)を入れず水の流れのように舞うと、それが形のない

大海に流れ行く水のように穏やかだった。

そこで“やわら”とは、水の流れを象るように舞うことだと知り深

く感動した。

更に発見したものは(玄)と言うエネルギーだ。

この(玄)は(力)は大嫌いで(力)を感じると隠れてしまう。

(力)を入れず舞う象りの、道なき道の理を追求してから早や20

数年の歳月がたった。 

特種の技法が必要な勢法を追究すると、実用に至るまで三年

の歳月が、かかった事もあった。

また、古の文書中に技を探し求める中で思い至ったことがある。

それを、皆さんに伝えたいことは、「良い技は隠され、悪い技は

隠さない」と言うことだ。

本当に大事なことは口伝により伝えられる、などと言うのもよく聞

く話だ。 

これからも、我々が“やわら”を求める限り、追究を迫られる課題

であろう。

 

 

      ”やわら”とは

老子曰く、ぶつかったら、曲がる、曲がるから真っすぐになる!

すなわち、ぶつかっても“組合い”をせず“腕力の違い”も問題とせ

ず、心を静かに、相手に従うという事です。

すなわち、上善は水のごとし、不争の精神のことをいいます。

もし、相手が“ゆるめる”または“強める”その時は、パワーでは相

手に抵抗をしない、その状況のあり方に従って変化することです、そ

のことが、曲がればいい、曲がれば真っすぐになる、という事、つま

り、曲がれば真っすぐになるとは、水の流れるように変化しなさいと

言うことです。

しかし、「やわら」は、舞のように象る武芸だから優劣があっても勝

ちとか、負けとかはない、だから、どちらかが優れて、どちらかが劣

るから、失敗すると言うことはありません。

もちろん、少しでも「やわら」の経験をつめば、有事の時も同じく失

敗することはないから、象った後は訓戒を与えることもできます。

この「やわら」は“争い”や“いかり”の中では存在することはない

だから「やわら」と“定義”しております。

では「やわら」は、柔術、柔道とはどの様に違うか?    

普通の、柔道、柔術の場合は、腕力で投げたり抑え込んだりします。

しかし「やわら」は形もない、技も、当身、足払いもない、更に生地

を掴む事もしない、剛強なパワーもスピードいらない、ただ実際に感

じることが出来、柔軟に感性を(練習したもの)象るだけです。

柔道、柔術、合気道の場合は形があっても、象りと言う記号は存在し

ない、勿論その三者の投げ方はパワーで形を作り、パワーで投げてい

る、それで私は、柔術の技をパワーを抜いて投げてみたが、投げるこ

とはできなかった、それは当たり前のことです、ただ柔術の名称を

“やわら”に変えてみただけで、中身は全然変わらない、だから、前

に述べたようにパワーでは形を作ることはできるが、パワーでは象る

ことは出来ない、しかし象りながら投げようとするとパワーに転じて

象りの流れは歪んで象りにならないのです。

更に、形の場合は永遠に進化しない、また、形は人形と同じく生命が

なく堅い、しかし、象りの場合は象るほどに進化する、それは何故か

といえば、象りは水の流れとおなじく生命体があるから、相手を攻め

ず、相手の心を象ることだから。

さらに「やわら」は舞いで感性を象るだけのもので、押す、引くこと

はしない、圧するだけで、投ようとする意志は、ぜんぜんない。

では、投ようとする意志がないのに、なぜ投げるか?

それは、投げようと思って動作すると、パワーに変身し、その作用が

反作用をよぶことを知っているから、剛強を避けて柔弱の象りを選ぶ

ので、その結果が相手を倒した姿です。

それは平常の事で、皆さんがいつも食事をする姿と同じ行動です。

食事をする時に、お茶碗をもつ手に、力を入れてもちますか?

そうでは無いでしょう、お箸も同じく力を入れてもちますか?

やはり力を入れないでしょう、其のように「やわら」はパワーを使っ

て行動をする事はありません。

ですからパワーで投げたと言うよりも、ただ象っただけのことです。

その結果が、太極投げと言う舞いで表現した姿です。

「やわら」のすべての象りには名称(記号)を付けておりますが、象

水流の象りのすべてが太極投げだと思うことです。

もちろん、太極投げとは物理的に変化させたもので、その主力になる

ポテンシャルを波動といいます。

その波の動きを一定の速さで周囲につたえる現象を媒質と言います。

この媒質という記号は「やわら」では“波心”と定義しており、その

“波心”は、歩みと、象りの中に存在しています。

その中身は「物体には、それぞれの材質や形状で、決まった振動をし

ようとします、この振動を固有振動と言う」その振動数を固有振動数

といいます。

例えばブランコに座っている人の背中を固有振動数と同じタイミング

で押して揺らすと、揺れがだんだん大きくなって行きます。

その現象を「共振」といいます。人体もおなじく固有振動があるから

“波心”と言う象りで、相手が共振して崩れます。

それ等の流れを象ったプロセスが、太極投げです。

しかし、太極投げとは古より伝わってはいません。

その象りを普通に観察すると「ここをこの様な手筋で、相手がこうし

たから、技がこのように掛る」と言うような図式がまったく見えにく

いと思います。

つまり、心に存在する風景は人には見えないように、その見えない風

景を感性で象った芸術であると言う事が言えと思います。

ですから、見た目では、なかなか分かりにくい武芸だと思います。

それこそ「やわら」と定義した真意です。

それでは「やわら」とはどの様なものかと、新たに述べると!

いわば「水」のごとく、そのようなものです。 

その「水」とは自らの意志で何かを施そうとするのではなく、その瞬

間、瞬間に方処に従って、変転流動して、自然のあるべき型に自由に

変化します。

その「水」の流は、それ自身の意志で動いたり、変化したり、止たり

する事はありません。

「水」がどの様になるかは、周りが決めているのです。だから周りの

状況を全身でもれなくキャッチして、それに沿って、下へ下へと低き

ところに向かって流れ、止まることがない、しかも、その動きには無

理がなく、その先は大海に行きつき、絶対に負けはない、さらに、そ

の変化は穏やかで、いささかの乱れもありません。

「やわら」も同じく「水」の流れのように、相手の行動に従がって変

転流動します、一つを例えると、水の流れにピンポン玉を落とす、そ

のピンポン玉を取ろうとして、手を伸ばします、その瞬間にピンポン

玉が下へ流れます、さらにまた、ピンポン玉を取ろうと手を伸ばすと

また下に流れます。

そのように、象りの流れを、パワーで止めようとすると、止めようと

した場所が先に進むから、水の流れと同じ結果がでるでしょう。

なぜ「やわら」は形も技も無く、パワーも使わず、どの様にして結

果をだしますか?

武道には形があります、その形の事を技と言います、その技を掛ける

動作は、技と言う手筋を、パワーで形を作り、その形をパワーで投げ

すべてをパワーで制御しようとする。

だけど、相手が、その人よりパワーが優れているときは、その技の形

はこっぱみじんにこわれて消滅します、さらに、パワーはパワーを呼

んで、お互いの勢法は生死が見えない、必ずお互いに滅びます。

だが「やわら」は、その勢法のありかたを、パワーで作るのではなく

その勢法の流れを、点と点で舞い、水の流れのように、相手の行動に

沿って、象りながら点で変化します。

そのように「やわら」はパワーを必要としない、なぜかと言えば、象

る姿の実体は、もともと宇宙の陽と陰の中の陰に住む“玄”と言う物

質であるからパワーを使うことができません。

逆にパワーを使うと反作用を呼ぶ、それを知るからこそ、「やわら」

は、象るだけのエネルギーがあれば十分です。

この象るという言葉が度々でてきますが、「象り」とは?

“象り”は、自由に舞うから楽しく美しいものですよ、その象る姿は

宇宙の真理と同じ運動、運行をするのです。

すなわち、精神、意思、作用、そうしてエネルギーと言った、目では

見えないが存在すものを、象りの中に自由に用いて、豊かな経験に従

って象る感性です、もちろん人の大小の違いがあっても形のないもの

を象るから「見えないものの真実が」“象る”ことで見えてくる。

だから感性で象る姿は「やわら」の“象徴”です。

それは、形のないものを、何かの形にうつしかえる、すなわち象徴す

る事によって示す記号なのです。

たとえば、画家が、筆で風景をスケッチするように、筆がエネルギー

となるから、風景が描かれるのです。

そのように「やわら」も自然と一体になり、舞ながら象る現象は画家

が“”等の三位を基本として描く芸術と同じく「やわら」

も“”を定義して象っています。

その象るプロセスはに勝ちに勝ちに勝つジャンケ

ンの法則と同じようにみえますが、しかし「やわら」はジャンケンの

法則と異なり、微妙な感覚によって、よび起こされる体験の内容に従

って象る感性であるという事です。

とは、ひとつ、ひとつ変化して移り変わるもので、親指の腹部を相

手の手首の内側の内関に当て、あとの四指を小指を主にして手首の外

側(手甲)にパワーをいれず、摩擦つまむと指がエネルギーなり、

膝を曲げながら、肘で手首を後に引いて象ると倒れます。

とは、ひとつ、ひとつのをつなぐとになって印象を奏でる、

また、橈骨側や尺骨側を手掌の小指側で相手の腕をこすり上げる

(霞を掛ける)事で手が崩れます。

とは、数多くのが集まるとになる、また相手が我が体を両手で

して来たとき、左手先を()相手の右腕に当て右手先を()左

腕に当てる、その両手の空間がとなり、相手のパワーを完全に吸収

することが出来ます。

更に手の(掌)を柔らかく摩擦力で象る事がある。

相手が接触した場所に手を柔らかく触れると、相手が動作を始める、

その時はを作用点にすると相手の運動が止まり反作用が起きて

れます。

そのように象る舞は、の三要素が含有されている。

骨たくましい剛の者が、人を投げた時は、筋力で投げた事がは

りと表面にあらわれます。しかし「やわら」はその反対で、変化と

言う点の集まりで象ると言う(エネルギー)で優雅に舞うからいつ、

どのように投げられたか投げられた相手が、見当がつかないらしい

いつも不思議がっています。

では、象る(エネルギー)とは? 

その象る(エネルギー)とは、弱いが重い“玄”と言う物質です。

その反対にパワーと言う(エネルギー)の場合は強いが軽い。

ただ“玄”は核の中に住み(核とは丹田のことです)身体のバランス

をコントロールしているが、実際に宇宙の根元的な“玄”が感じられ、

はっきり現れた時は、大宇宙の作用と同じく変転流動して象る(エネ

ルギー)であるという事です。

しかし、パワーは透明であるが、感じることはできる、けれど“玄”

は透明であるが、感じることができない、変なことだと思うが“影”

も“光”も透明である、しかし、光も、ものに当たるときは影がうつ

ります、その影は奥深いものです。 

ただ“玄”という物質は暗黒物質であるから、光りの影と同じものだ

と思えるから自然のあり方と同じことだと考えます。 

その透明なエネルギーをもつ“玄”の物質を物理的に定義すると一つ

の勢法を、初めから終わりまで“玄”の物質で象る空間は、象る(エ

ネルギー)であり、その象るプロセスが終わったときは、その結果が

現れたときです。 

即ち、やわらの真理、法則は、目に見えない一切の根元が含有されて

る、その真理、法則を開悟して色々と象った現象があるから、

パワーでないエネルギーの法則と定義が生れたのです。

      “その方程式は”

玄=1/パワー×重さ×1/(正時間ー時間)2×肘/手1/

   パワー=パワーが弱く成れば成るほど玄が大きくなる

  1/(正時間ー時間)2=バランスのとれた時間(平常の在り方)

  肘/手=手のパワーが強いほど肘が使えない

   肘が働かないときは=玄も消えてしまう

   象 り= 玄×距離

   やわら=象り×点×線×面

   変 化=やわら×奇正


   接 触の三要=点、線、面

   やわらの三要=心、気、理

   相 撲の三要=心、技、体
 
………老子曰く、その“玄”は純粋の黒ではなく、少しみの帯びた

        黒い色だと云々

………象水曰く、その“裏”は色である(正面から太陽を見てその

            黒い影がく見える)

ここで少し、“玄”の性質を述べます!

“玄”は、とても弱々しく、優美で、細かくて、少し力むと感じやす

く、デリケートなものです、少しでもパワーの色が見えると、すぐに

隠れてしまい、ですから象りのバランスが崩れてしまいます。

しかし、そのまま象った時は、最悪な結末を生むことになります。

その時は、小胸筋をゆるめながら鼻で息を吸います。

又は、“オケスチナ”と心で読みながら鼻で息を吸い、口から活性酸

素を吐き出すことで、その時は、すべての硬さとパワーが消えて自然

体に戻ります。 

次に“象る”(エネルギー)の嫌がることは! 

緩急遅速(速いか遅いか)すなわち、早く動作をすること、またはす

ごく遅く動作することです、また、象るプロセスの中で弛緩する動作

があると、ふつうの象りの流れが、乗り合いバスが凸凹道をガタガタ

走るような状態となり“玄”の実体が消えてしまいます。

だから、パワーで手(道具)を使うことは絶対にしてはならない。

なによりも大切なことは、肘で(手)を使うことです、さらに足は体

より先に行動をしないことです。

“象り”が好きなものと言えば!

円と舞が好きで、いつも、三角体を大切にすべきものとして尊敬し、

肘と膝を尊び、歩くときは膝を曲げたり、のばしたりしながら歩き、

食事をするときは、肘を伸ばしたり、ちぢめたりして、茶碗やはしを

使います、それが平常の事です。

枝垂れて礼をなすのも三角体であり、“象り”はそれ以外の身体の部

分を使うことはありません。

さらに、象る象りがよくなってくる時は、徐々にパワーが抜けて行く

状態ですから、“玄”も大喜びです。

私は長い歳月の中で、“玄”という物質を、象るトレーニングの垣間

の中で、度々感じる事ができました。 

しかし、今では普通の事です「やわら」では、この“玄” の物質の

事を“象る”と記号し、象る中に必ずこの物質が存在する事からその

象る(エネルギー)のことを“象る”と定義しております。

なぜ「やわら」は象る時に、相手の生地や手を掴む事をしない?

その答えは簡単です! 

相手の生地や手首を掴むと、パワーでにぎって、形にこだわるから象

ると云う(エネルギー)が消えてしまいます。

しかもパワーで動作すると、その時は必ずパワーに頼って硬くなり相

手のパワーに負けます。

だから、有事の時はけっして手首をにぎらず、相手の手首を(蛇手)

で柔らかく、つまみ(摩擦力)で、象るだけです。

“老子”の不争の清心は、水に象徴され、変化に応じてぎりぎりの限

度に至ることがないといいます。 

だから、象りには常形はない、しかも技という記号もない、常に形を

作らない、それが象りです。

水は地によって変化し流れやすき処を見出すように、象りも虚する処

を避け実する処を見出します。

しかし、水の流れは重力に拘束されるが、象りはパワーを入れない限

重力に拘束されることは無い、逆に象りの在り方によっては重さで

象ると応援してくれます。

その象る姿を、繰り返し繰り返し練習すると、象りは自然と小脳で覚

自分の体の一部となります。

だから感性は相手に従って象っていると、自然に良い結果がでるので

す。さらに面白いことに、象る(エネルギー)は慣性力と言うけれど

も慣性はパワーでないことは明らかです。

そのパワーでないエネルギーは、布団を折畳み重ねて行くように、相

手のいずこの場所でも居つくことがなく、手の面を移動して、その上

に座をする位は、その重さが作用点となり相手の重心を崩し、いつで

も相手を地に沈めることができます。

これは太極拳の基本である勢法の摺疊法(しょうじょうほう)と言う

この摺疊法は(二羽桁)で解説します。

それでは「やわら」は格闘技の中で一番強いのですか?

とんでもない!   格闘技で一番強いのは相撲ですよ!

その理は、訓練された相撲取の体格はゴムのように強く、しなやかな

技(四十八手)の技を持ち、天地、四方の方位からなる、立体的なス

ポーツです。 

逆に「やわら」は象る動作にはパワーは使はず、天地四方の方位を尊

びながら相対的であり、円で始まり円を描き続けて終わりがない、そ

の象りの誠の是非を心に問いながら、邪が消えたとき、己の間違いを

ただし元の身体に帰る、その時が初めて大自然に融けこんで円に帰る

事が出来る。

しかし“やわら”には完成はない!

結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力し

たかどうか、ではないでしょうか。

また、格闘技とは大きく違い,友を守り家族を守る武芸であり、さら

諸流派の下に立ち、勝も負けも思はず、変転すること水のごとし!

その象りの一部をこれより伝えます。

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