奥 書

日本国が誇れる優しく強く己を信じる事が出来る「やわら」の芸術茲に在り。

芸術を考えると「聞く」「見る」「動く」の種類が見えますが「やわら」の場合は舞と同じく動く芸術です。

「やわら」には闘争心は要らないもので家族や友人を護り国民が健康と平和と自由に生きる文明の基礎となる自然の贈り物です。

竹は天変地異などには柔軟でしなやかで、びくともしません。

「やわら」も同じく柔軟で優しさがあり象りがあっても形が無く外勁を捨てて内勁の潜在力を以って相手を優しく制御します。柔道、柔術、合気道等は外勁を以っ

て戦う武道ですが「やわら」と
言うものは外勁を無にして何等の道具も用いる事が無く健康と平和を築く人間像の形成に役立つ事に専念しています。

其の「やわら」は物理、心理、倫理、論理、芸術、哲学等の要素が含まれる人間像の形成であり其の真理は不変です。

其の真理を知る事で平和と自由の世界に臨み争わず平和を守る事が「やわら」の本義です。

歴史的では古代より武芸が時代の社会的状況を反映しながら実際の体験に基づく創意と工夫により種類を増し、内容も体系化し発達して来たと言われています。

古代では呪術や神事、芸能的色彩の濃厚なものであり、奈良、平安時代では宮廷の弓馬、相撲の類が錬武性を持つと共に公家社会の儀礼的、芸能的な傾向の強い行

事と化しました。

鎌倉時代に入り、公家の弓馬の伝統を継ぎながらも新興武士国の儀礼、遊戯、錬武を兼備した形態へと武芸は変化し、現代の我が国の武道も前述した経過をたどっ

ており真の武道としての道を歩んでい
ない事に痛感します。

体術の起こりは紀元前にも用いられたが、歴史的には神武天皇の御世に体術を無双捕と言った時代もあますが、無双捕型として体術に残されている類の無い捕手と

言う意味にもなります。

此の無双捕型より相撲の四十八手が生まれる基となった説もあり、例えば無双捕の飛違と言う型より相撲の外無双がうまれました。

此の外無双捕は四っに組んで、左手又は右手が体を捻ると同時に相手の足の外側に手を掛けて横倒しにする技です。

車返の型より、相撲の鴨の入首がうまれました。

鴨の入首とは下手に入り相手の左横に首を出して反り返って倒す。

風雪と言う型より、相撲の内無双が生まれました。

内無双は左手で相手の右足を持って捻り倒します。

来落と言う型より、相撲の襷掛が出ています。

逆投と言う型は、相撲の取ったりです。

両落と言う型より、相撲の小手投です。

小手投は四っに組んで、右手で相手の左手の上より抱き込んで右足を相手の前に出して投げる技です。

滝落と言う型より、相撲の合掌捻り。

駒返と言う型より、相撲の肩透。

肩透は左手を相手の右手の下より差し入れて逆に取り、体を捻って右手で首筋を叩き抑えて倒す技です。

以上前述した如く全部で内外に四十八手が組まれています。

今日ある柔術も柔道も体術無双捕が基礎となって居ります。 其の相撲を淵源とする柔術系の枝目には和等、捕手、小具足、腰廻拳、白打、手搏などと区別され、

一般に言へば捕手、小具足、腰廻
其の相撲を淵減とする柔術系の枝目には和等、捕手、小具足、腰廻拳、白打、手搏などと区別され、一般に言へば捕手、小具足、

腰廻
は人を捕縛する術で和等は投げ、絞め、押え込む術でした。拳、白打は打ち,突く、蹴りの術で其れ等を拳法と言います。

現在では柔術と拳法を確然と分けて居ります。

「拳法秘書」では拳法を「やわら」の事としていて、「武芸小伝」では「やわら」は拳法に分類して、小具足と捕手を除外しています。

現今では、体術、武術、武道は同義語として使われる傾向がありますが、これ等は古より伝承され一般に柔らと称していますが総て外勁の(剛)を主として内勁の

(柔)の容姿を観だせません。

故に力で相手を制する業を柔らちは言わない事が普通であり、また柔らと総称すべき事ではないと思います。

柔らと言うものを考証すると小文書等では柔らと言う勢法らしき書物は見当たりません、勿論柔らは古来より伝承されていたとしても柔らには形がないため指導者

の都合によって形を変える事がしばしば有るゆえ自然に消滅したものと思われます。

元来、柔らと言うものは武士にとっては弱弱しく感じて気骨に合わなかった事も原因と思われます。

併し現代の武道世代を観察すると、柔術、合気道、柔道を不磨の宝鑑の如く崇め、現代社会の孤独と不安の中で個性的ではなく形どおりの合理主義に低迷し「やわ

ら」の本質を理解せず体力と質量、又
は気で人を制するものと自己本意を過剰にして、更に情意と徳義の軽薄化の世相を現出しています。

果ては日本国有の伝統を誇る武道を曲学阿世の如く芸能的に劣化に至った事は日本文化の危機であり,誠に優慮に堪えないものが在ります。

故に其の実態から抜け出し武道に必要な活力を回復させる好機が此の「やわら」に存在します。

老子曰く、凡そ何が柔らかい、弱いと言っても水ほど弱いものはない、其のくせ堅く強いものに勝ること水に勝るものはない。

此れは水が弱さに徹底しているから、弱は強に勝ち、柔は剛を制す此の道理は誰でも知っているが実行できる者は誰もいない。78

私は老子の言葉に一念発起して温故知新の精神を鼓吹して確固たる情念と意思との涵養に努めて早や20年、80歳にして未だその矩を越えないが「やわら」の本義

を悟り柔は剛
を制するその芸術を取捨選択し集大成致しました。

我がやわらは未来の為の新しい歴史の始まりです。

故に健康と平和と国家繁栄の為に高い武道を志す人々の礎に成る事 を信じて「やわら」は諸流派の下に立ちます。

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