枝垂桜(しだれざくら)

枝垂桜とは相手の手や腕に手の重みを載せて、枝垂れるようにお辞儀をし乍ら我が前下へ圧して投げる事を枝垂桜と称します。

(かすみ)

霞とは、手や腕を使って相手の腕を擦り乍ら経絡を移動させる事を霞と称します。

()(しん)

波心とは、相手の腕や体に我が手を触れて体を揺らし乍ら相手を共振させる事を波心と称します。

無為(むい)

無為とは、流動の中で邪を鎮め自然のままで作為が無く、唯相手に従い象るだけの事を無為と称します。

山彦(やまびこ)

山彦とは、手の掌を使って相手の腕や体に触れて促し、反応させる事を山彦と称します。

上善(じょうぜん)

上善とは、水の如く柔らかく自然に従い争う事もなく無心順人の様に相手の行動に応じぬ事を上善と称します。

  (いぬ)(ぶえ)

犬笛とは、象りの中で相手が力で抵抗した時、瞬間に象りを止めて弱の重みに変化して象り直す事を犬笛と称します。

  (かなしばり)

金縛とは相手が行動をする処を強く当てる、時には柔らかく使う事で相手の心が二秒ほど滞ります此れを金縛と称します。

石火(せっか)

石火とは、間髪入れずに攻撃すると言う意味ではなく、象る時は左右相対ではなく相対的に時間差で象る事を石火と称します。 以上の九法には個々に六法があります。

即ち枝垂桜にも六法あり、霞にも六法あり、波心にも六法あり、石
火にも六法あると言う事です。 総て自然の在り方を解りやすく名を付けたものです。

やわら六法の感覚は万物の理が含まれ、色も形も実体もなく心は其 の処に在れども心は其処に止まる事がありません。

五+五=拾は、相手が五の外勁の時は五の内勁で和をします。

七+三=拾は、相手が七の外勁の時は三の内勁で和をします。

九+一=拾は、相手が九の外勁の時は一の内勁で和をします。

但し相手が七の外勁の時に八〜九で向かうと内勁が変じ外勁に成り和をなす事が出来ず表裏に落ちます。

其の時は力む事なく和の精神で七+三=拾で和をします此れを入りを量り出を制する事です。                

 

  

不動心と言う事は、目の前で何事の変が在っても心が動かない平常心の事を言います。

其の心は至静無欲の中で物の来るに従って応じると、其の用は極まり尽きる処が在りません。

併し意念の動く時は物事に驚き、恐れて、心も穏やかにならず物事に誤る事が多い、総て物事に驚かず、恐れず、泰然自若にして動かされない心を持つ事です。

心が動かない時は気も動く事は無いものです、又、事に出会った時は自然に従うと無我無欲の心体は無心になり、自然の真理に任せる時は「やわら」の応用も自由

になり千変万化も無限です。

其の心体不動の処を語るに残心と言う事が在り、何を以って残心と言うかは詳らかではない。つまり物事に牽かれる事がない心体不動の処を言うだけの事です。

心を入れて心を残さない、心に心を残した時は病です。

併し心体明らかでなく、心を容れれば力になって此れも病です。

或いは相手と一気一体となる事を合気と言って此れも病です。

故に心は穏やかに象りは柔らかく水の流れのように何処にも止まる処がない心、其れを不動心と言います。即ち物事に心を動かされないと言う事です。

 

 

静と動とは、動いて動く事がなく静かにして静かなる事なしと言い、静かにして動かないものは体、動いて物に応じるものは心です。

心は静かにして象る理に備えて霊明であり、気は動じて宇宙の真理に従って万事に応じます。此れを静かにして静かなる事なく動いて動く事なし言います。

「やわら」で語れば静は気と理であり、動は心と気であり、心は端然として悪くむ事もなく、恐れる事もなく、何かしようと思う心もなく一身の心と気と理を併合

し、相手に従って応用すれば其の象り
の結果は確実に善いものです。

静は体が動くと雖も心は静を失わず、静かであると雖も何時でも変化が出来て動の用を欠かす事がありません。

又、「波上浮木」浮き上がる波には浮き、沈む波には沈むように静 を以って動を制して居ります。

剛は強ではない、一つの事に優れたもので在るが自然の理は調和せず調子は浮いて軽く細かいものです。

強の推移はだんだん弱くなり消滅します。

柔は弱ではない、柔らかさとしなやかさを持ち自然の理はよく調和調子は沈み穏やかです。

元々役には立たないが重くてものにはよく従います。純強の勢は必ず滅ぶ、故に「やわら」の奥義は赤児のように弱なものです。

其の奥義を老子曰く、柔弱は剛強に勝つ事を述べました。

張=歙(歙)息を吸えば   (張)体が膨張する

膨張すれば      縮む

強=弱(弱)弱めたければ  (強)強める

      剛強は軽い      柔弱は重い

興=廃(廃)捨てたければ  (興)揚げる

      上げれば       下る

与=奪(奪)奪いたければ  (与)与える

      共振すれば      揺れる

剛にならず強にならず其の時は道に合する事が常で暖簾のようにしなやかに、舞いを以って柔弱の気を象り、其の二者を我が身に兼備した上で柔軟自在に柔弱の変

化を使い分ける事です。
 

 

陰五陽五=陰陽の並びあるもので陰陽が偏らず応用は自在。

陰三陽七=陰が少し減り陽が増えると強く成るが軽くて其の推移は消滅する。

陰一陽九=陰が大きく減り陽が増えると硬く成り過ぎて其の推移は壊滅する。

陰六陽四=陰が少し増え陽が減ると柔らか過ぎて役には立たない。

陰八陽二=陰が大きく増え陽が減ると弱く成り過ぎて全く役に立たないが重い。

無心順人の無心とは、心が無いと言う事ではなく自然のままで人為の加わらない天地自然の在り方を無心と言います。

順人とは、人の力の行動には応じない事であり、ただ主観的な妄動を避けると言う事です。

「波上浮木」の如く、浮き上がる波には浮き、沈む波には沈むように静を以って動を制しています。草木が風に逆らわず柔軟に揺らぐ容姿のようなものです。 

 

 

「やわら」は相手の流動する強弱の在り方を聴勁しながら変化して其の変化は正と奇の二種類に過ぎないが、此れを組み合わせれば無限に変化します。

正とは行動の定石、奇とは普通と異なり正しくは無いが目的は正に合する為に臨機応変の処置を執って奇は正となり正は奇を生み円環さながらに連なって永遠に尽

きる事がない、色の要素は三原色です
が此れを組み合わせれば無限に変化するようなものです。

 

 

聴勁とは(知覚能力)目に見えない意識や力を、相手に触れた時に其の感覚を通して相手の力の方向や目標を把握する能力です。

知覚能力とは感覚を中枢に伝えた刺激により外界の現象を意識する作用、即ち自律感覚を養成して心で悟り体で自得するものです。

 

 

人の争う時の動作は推すか手首や胸襟を掴んで投げようとする事が多い、「やわら」は何所を掴んで投げようとか引こうか推そうか等は心に思う事がない、絶対に

力で掴んだり推したりしない事を心に
留めて置く事が肝要です。此れを思無邪と言います。

故に「やわら」の象りは時に応じて点と線と面の三者を使い分けて自由自在に象る事です。

点とは=親指の処

線とは=親指と人差指の間

面とは=掌の処

太極のビッバンより原子が生まれ、原子から太陽系が誕生して人間は其の宇宙の中に存在する小さな宇宙です。

其のように真意の「やわら」は宇宙と同じく本体は精神、意思、理念、作用、そうしたエネルギー等目に見えない無形なものを意識と言います、即ち「心」の事を

言うのです。

其の心に従うものは「気」又、其の気に従うものは「理」此の三位は個々のものではなく和をなす事で一つの宇宙創り、此れを称して「象り」と言います。

其の現象は象りによって現す容姿です。即ち心、気、理、を善く一体に和を正し、正する時は全身の手足まで伸び広がり、滞る処がなく変化の応用は自在をなし、

此れ全く真
実に叶う根源です。

少しの心もなく、気も理も、何れも不識に滞る処もなく自然のままにして「無心順人」此れによって後から発して先に至る事も自然に象り変化が自由になる処も和

による妙であります。

此の象りの和をよく知る時は天地四方へそろりと柔軟に広がり、不識の我は無為にして其の妙の変化は自由自在となります。故に「やわら」の深意の心得は三位の

和をなす事を要とします。

 

心、気、理の三位は一体で「やわら」を象る根本的な原則です。

併し心気理の三位を区別して言い現す事ではないが、心とは物事に反応して是非の結果を明らかにして其の作用を気に命じます。

其の心は透明で綿のような軽い意識です。故に心は生命の活動の現象を司る主人と言えます。

気とは、心の作用に従う潜在力の事であるが意識、意念によって後天的に反復練習を重ね、場所と空間、容積、時間等のすべての変化に感応するが、其れに作用す

る潜在力は透明で重く沈んでいます。

心気の二者は元々一体であるが心と気が融和しない時は象る事は出来ません。

理とは、気の活動の道筋を象る天地自然の法則です、其の道筋のりを「歩み」と言います。

其の歩みは琴を奏でるが如く流動し純一で偏る処の私欲がなく是も非もない、ただ、明らかに成るだけのことです。

気理の二者は元々一体で気と理が融和しない時は象りと歩みのバランスが取れず善い結果を出す事が出来ません。故に心気理は合一にして不二の妙と言えます。

やわらの要綱

()とは(なに)

老人子による道「宇宙」の法則は人間社会にも貫徹されております。

其の法則にのっとる限り自ら生々発展し、其処には人間の私意や作為の介入する余地がありません。

併し人間の力と言うものは武道に優れている人でも力に合した時は敏感に反応して、其れ以上の強い力「外勁」で対応しようとする習性があります。

其のとき互いに力の差を争う事となります、其れを一気一体と言って其の競り合いを合気と言い表裏に落ちる事は必至です。

其の時は合気を外し核に意識を置き内勁を以って肘と膝で其の作用を止める、即ち作用点を作る事で融和されて力は保存されるものです、此のとき押し返えすと反

作用が起きて自分が崩れます、故に押
し返さない事が肝要です。

核とは潜在力、即ち臍下三寸の処の丹田(明星)の事を言います。其の核を如何に発するかと言えば意識を核に置き腰を柔軟にして肘や膝に核のエネルギーを発し

て両者を使います。

併し肘や膝を使う事は肘や膝に力を入れると言う事ではない、しかも核は肘と膝以外の所では使う事が出来ません。

核を中心にして気を肘に発した時は肘は肩より上に揚げずいつも三角体を尊び、手は肘より先んずる事がなく手は肘の道具だと思い肘で手を使う事が肝要です。

膝も肘と同じく足は膝より先んずる事がなく足は膝の道具だと思い膝で足を使う事が肝要です。其の柔らかく自然に奏でる容姿を「象り」と言います。

人の動く時は必ず外勁を感じます、其の時は目で視ず感覚で聴勁しながら相手の力の虚実を感じ其の実を咎めて、核から気を肘と膝に発しながら手や足に力を入れ

ず柔らかく自然に実の流れに寄り添っ
て象る事です。

又、手足に力を入れて事を行えば肘や膝が滞り、核の意識、注意、の持続性が乱れて落ち着きがなく、外勁に偏って相手の力や行動も見えなくなり、更に己自身の

姿も見えず表裏に落ちます。

遠山(とおやま)()(つけ)

目付とは、相手を遠くの山を観るように広く観る事です。

其の意識は鏡の前でお手玉をして鏡の中のお手玉を観乍らお手玉をします、其の積み重ねで感覚が養成されて相手の行動の遠近遅速まで己自ら観えて変化の妙は

自由自在になります。

併し小さく相手の足に目を付けたり、手に目を付けたり、顔に目を付けたりすると迷う心が生じるから此れを病と言います。

  

  

人間の潜在力と言うものは生理的に備えていますが使っていない部分は科学的に見ても沢山あります。

併し使っている各機能は約五分に一程度ものですが、其の中の(エネルギー)は核の事を言います。

此の核を百パーセント応用するには核に心気を住まわす事が肝要であり其の方法は手ぶら体操が一番望ましいものです。

手ぶら体操の呼吸の過程は呼吸法としての規則的なものはなく普通の呼吸をします、但し口で呼吸をするのではなく口を閉じて舌先を上顎に付け、核を中心にし

て鼻から息を吸い、鼻から濁を吐く、即
ち核で息を吸い核で濁を吐く逆腹式で呼吸をします。

其の息の流れは核で吸った息は鼻から頭の中心の聖門を通り煩悩窪から脊髄を通過させ、会陰から核へと巡るようにイメージをします。

先ず全体を脱力して核に意識を置き膝を屈しながら其の上下の振動で手を振ります、自分の力で手を振らない事です。

毎日一分ほど膝を使って手を振れば自然に水が浸み込むように徐々に養い育ち、心気が核に沈み安定するように成ります。

生命活動を始めとして、総ての自然現象は絶えず能力を注入されなければ持続しません。

併し能力には色々な種類のものが在るが「やわら」の能力は外の力を弱めます、其の力が消えた時に始めて中心にあるエネルギーを発気する事が出来ます。

即ち頼りにする対象がなくなった時に体内のエネルギーが完全に発揮される、其のエネルギーを潜在力(内勁)と言います。

内勁は核より出でて脊髄を通り肘から発気します。

故に「やわら」は外勁を使う事がない、其の外勁を捨てる事から始めると内勁の潜在力が自由に流動する事が出来ます。

又、力を入れると先入観が生じて心が濁り、其の在り方も変わって潜在力が封じられ象りも歪むものです常に平常の食事をする時と同じ心得が肝要です。

                                                 (だつ) (りょく)

脱力とは小胸筋の力を抜く事で外勁が消え引力の作用によって重力に変わり相手の腕の上に乗せ乍ら肘を捻りると重力波の作用により相手のバランスが崩れ、平行

にすると比例しないから自分を作用点
にすると相手が反作用を起こして崩れます。

                      呼() (きゅう)

呼吸は核で鼻から息を吸い、核で鼻から濁を吐く逆腹式呼吸です。

人は鼻で息を吸うと体が膨張して体の堅さが解れ柔軟になり肘や膝の働きが楽になり心も沈みます。又、相手の力が見えた時は一呼吸すると我が肩の力も消えます。

                      (かたど) り

(かく)養成(ようせい)

(やわら)六法(ろっぽう)

気とは何かの時に述ましたが、気はただ存在するだけではなくあらゆる場所と時間、空間、容積等に感応、反応しあって働き作用しながら運動運行しています。

これ等の気(エネルギー)の働く作用は相互に反発、拒絶、破壊、消滅等を引き起こす仇敵の関係を(相剋)と言います。

又、相互に感応しお互いの存在や立場を認め合って共存共栄、合気して融合をなし推持、尊重する兄弟家族の関係を(相生)と言い合気です。また行動の約束も合気です。

即ち自分と相手は同じ色合いではいけないと言う事です。

懸け待ちの中で先に当てよう、投げよう、相手の行動に此の動作で対処しようと考えた時は、相手に心を動かされて心が滞って行動が居付き、此れも一気一体と言って合気

と言います。

其の時は合気を外して平常心に戻り相手が変動する虚実の実を象る事で投げようと思わなくても投げる事が出来ます。

又、懸けの中の待ち、待ちの中の懸けと言う事も自然の応用です。唯、初心者の為に名を付けたもので、其の意義は動いて動く事なし静かにして静かなる事なしと言う事と

同じ事です。

又、受けて守ろうと思う心は硬く滞って遅く気が妄動してその虚を攻められる事は必至です。

とにかく受ける事と護る事を思わない事で心を穏やかにしていれば気が妄動する事もなく、体を綿のように柔らかく流れる雲の如く変化すれば自然と其の事の用を成す事が

出来ます。

  

柔六法とは、枝垂桜、霞、波心、無為、山彦、上善、犬笛、金縛、石火と九の法が在りますがその九法の事ではなく、天地の二極と東西南北の四つの方位を足して六法、即

ち天地の二極と東西南北の自
然の法則を柔六法と称します。

(あい)()(はず)

(せい)(どう)

不動(ふどう)(しん)

剛強(ごうきょう)柔弱(じゅうじゃく)

()りを(はか)(いずる)(せい)

(てん)(せん)(めん)

(ちょう) (けい)

()(せい)(かわり)

無心(むしん)順人(じゅんと)

象りとは気を象る事です、即ち心で感じた感覚を此のようにしなさいと言う気を肘や膝に命じる、其の命じた事を肘は象り足は歩み行雲流水のような自然の姿です。

又、形に拘ると人形のように生命がなく堅い筋肉に変わり柔軟さがない為、象る事が出来ません。

 

 

核は潜在力で外勁を発する事は出来ません。核は内勁の潜在力を発する事が出来ます。

「やわら」とはその様なもので核が使う事の出来る処は肘と膝の処で核は肘と膝の主人となります。

然も肘と膝は先天的なもので赤子の時から既に肘と膝でハイハイして居ります。勁の力を使う処は手と足だけでそれは後天的なものです。

人は平常では手先で物事を行って居ると思っていますが、実際の処は肘であり肘の道具である手を肘で使って物事を完成させます。

併し手に強く意識を置くと外勁の力になり胸筋や背筋が硬くなって同時に内勁を発気する事が出来なく肘で物事を行う事も出来なく成ります。足の場合も同様なことです。

 

 

一般では腰や手足に力を入れろ、更に気を入れて技の形を練習をしなさいと言いますが、「やわら」は形を作るものでは無く気を象るものです。

其の象る気は核を中心にして、柔らかさと、しなやかさで導く道筋が理です、即ち歩みです。

手を取られた時に手を外そうとか投げようとか思う心に、心を置く事が無ければ相手の力に向かう事がなく、心は強弱の是非を判断し気に心の用を命じ、其の命じた心の命

に気は従って創生する、創生
する事によって道筋を歩みながら象ります。

(ひじ)(ひざ)主人(しゅじん)(かく)

潜在力(せんざいりょく)

体用(たいよう)とは

本体(ほんたい)とは

気とは太極、大宇宙の存在と同時に宇宙の真理、精神、意思、作用そうしてエネルギーと言った目では見えないが存在するものを気と言う文字で表現したものです。

形もなく、色もなく、実態もないが、宇宙の精神、意思、エネルギ―其の無形のものに因って目で見る事の出来る星と言う有形体に結晶して初めて気は存在する

ものです。

無形の精神、意思、エネルギーと言う気が本体となり、有形の結晶体は無形の気の作用から生まれて本体の作用をなす処から体用といます。





本体とは無、其の大宇宙の真理、精神、意思、作用そうしたエネル
ギー等目に見えない無形なものを本体(陽)と言います。

其の無形を老子は道と称し道が創生の作用を起こすと万物も其れに連れて生まれ、其れを(有)と言い、有とは無の作用から生まれた(陰)の事です。



体用とは、無形である真理、精神、意思等を表現するものです。

形を以って例えると、鐘が(体)音が(用)です。

花を以って例えると、花が(体)匂いが(用)です。

其の有形体は無形も気のおかがで生まれたので(陰)精神、意思、理念等を表現する無形の気は(陽)即ち有形体の花も鐘も本体(陽)が物の用を(陰)に命じて

陰陽が
結合したものです。

故に有形体は無形の本体の用をなす処から体用と言います。

「やわら」で表現すれば、無形の意識が肘や膝に此のようにしなさいと命じると、肘は意識が命じた気を象り、膝は意識が命じた理を歩みます。

特に手足に意識を置く事はせず肘や膝の道具と思えば力の入れようがない、其れが「やわら」の在り方です。

其の肘の道具、即ち手を以って(点)と(線)と(面)を相手の形態によって使い分け乍ら相手の動作の虚実を見極め、其の虚実の虚を象らず実している実を象る

事です。

又、「やわら」は当身、足を払う事、服を掴んで投げようと思う心は機械的に囚われ形どうりで、力の作用となるため其のような行動は絶対に慎む事です「やわら」

は争いや勝負と言うより優劣の在り
方で流れ行く雲のように変化し水の流れの如く象るだけです。

水の流れのように象る其の真意は(心)(気)(理)の三位一体を基にして相手の攻撃は受けて立たず、護らず、核に意識を置き水に浮かぶピンポン玉を指先で押し

たように揺らぎながら、足は琴を奏
でるが如く歩み、同時に手は風に舞う花弁のように舞う、其の象りは水の流れのように争う事がなく自然に従って居ります。

更に象りの流れは相手に抵抗する場所を与える処がない、併し相手を投げようと思う心は形に偏るため力に変わり「やわら」の個性が消滅して結果が出ません。

象りが善ければ結果が善い、其の時は相手も怪我をしない。象りが悪い時は結果も悪い、其の時は己自身も滞るもの、其れは己の性を害して不善に落ちるからです。

其の邪(投げようとする意識)を退き無心に帰り象るだけの事です。

(投げようとする心)其の意識のない事を「思無邪」と言います。

「やわら」の要は、象り(心気理)聴勁(知覚能力)思無邪(投げようとする意識がない事)歩六法、柔六法、点,線、面、相対手、歩舞、手解、撞捌手、等は

「やわら」の要綱です。

肘や膝はふだん誰でも使っていますが、特に「やわら」は肘と膝を使う事が要であり其の感覚の訓練が必要です。

「やわら」は体で学ぶもので知識や言葉よりも時間がかかるもの又「力」は歳と共に衰え「やわら」は歳と共に感性が豊かになります。

()象る(かたど)道筋(みちすじ)

心気(しんき)()

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(いん) (よう)

やわらは宇宙(うちゅう)